徳丸北野神社|平安時代創建、徳丸本村の鎮守、田遊び
徳丸北野神社の概要
徳丸北野神社は、板橋区徳丸にある北野神社です。徳丸北野神社は、正暦年間(990-995)に疫病が流行したさい、梅の古木に里人徳麿が祈願したところ霊験があったので、長徳元年(995)山城国北野天満宮の分霊を勧請したといいます。江戸期には徳丸本村の鎮守社であったといい、明治5年には村社に列格していました。当社の「田遊び」は、山城国北野天満宮の分霊を勧請した際に、田夫の業を演じて神慮を安んじ奉ったもので、国重要無形民俗文化財となっています。
社号 | 北野神社 |
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祭神 | 菅原道真公 |
相殿 | 天照大御神、猿田彦尊、保食命 |
境内社 | 須賀神社、稲荷神社、杵築神社、天祖神社、石上神社、三峯神社、浅間神社、水神宮、天王神社、三山神社 |
住所 | 板橋区徳丸6-34-3 |
備考 | - |
徳丸北野神社の由緒
徳丸北野神社は、正暦年間(990-995)に疫病が流行したさい、梅の古木に里人徳麿が祈願したところ霊験があったので、長徳元年(995)山城国北野天満宮の分霊を勧請したといいます。江戸期には徳丸本村の鎮守社であったといい、明治5年には村社に列格していました。当社の「田遊び」は、山城国北野天満宮の分霊を勧請した際に、田夫の業を演じて神慮を安んじ奉ったもので、国重要無形民俗文化財となっています。
新編武蔵風土記稿による徳丸北野神社の由緒
(徳丸本村)天神社
村の鎮守なり、毎歳正月十一日田遊祭と云神事あり。
末社妙義、疱瘡神。
神職。大野摂津、吉田家の配下なり。(新編武蔵風土記稿より)
「いたばしの神社」による徳丸北野神社の由緒
正暦年聞にこの地に疫病が流行した際、梅の古木に祈って霊験があったので、長徳元年(九九五)正月十一日山城国北野の天満宮より分霊を勧請した。このとき、田夫の業を演じて神慮を安んじ奉ったのが、今日の「田阿曽美(回避び)祭」の起源とされている。このことは古書「天神宮紀」に見られることである。
宝永七庚寅年(一七一〇)十二月十四日吉田家より大野政武祠官許状申受け今日に伝襲する。江戸時代は天神社又は天満宮の社号であったが、明治三年五月四日付で「北野神社」の改号届を浦和県庁に提出し、同六年東京府より社号改正を申し付けられた。
しかし一之鳥居の石額に、「北野神社享和三年当村若者中」と見られるところから、この社号を用いた時期もあったようである。旧社格は村社で明治五年十一月十九日に定められた。(「いたばしの神社」より)
東京都神社名鑑による徳丸北野神社の由緒
正暦年間(九九〇-五)にこの地に疫病が流行したさい、梅の古木に里人徳麿が祈り、霊験があったので、長徳元年(九九五)正月十一日山城国北野天満宮より分霊を勧請した。このとき、田夫の業を演じて神慮を安んじ奉ったのが、今日の「田阿曾美(田遊び)祭」の起源とされている。このことは、当社所蔵の「天神宮紀」に記されていることろである。宝永七庚寅年(一七一〇)十二月十四日吉田家より大野政武祠官許状を申し受けた。江戸時代は天神社または天満宮の社号であったが、明治三年五月四日付で「北野神社」の改号届を浦和県庁に提出し、明治六年東京府より社号改正を申付けられた。しかし、一の鳥居の石額に、「北野神社 享和三年(一八〇三)当村若者中」と見られるところから、この社号を用いた時期もあったようである。(東京都神社名鑑より)
徳丸北野神社所蔵の文化財
- 田遊び(国重要無形民俗文化財)
北野神社と無形民俗文化財「田遊び」
北野神社と無形民俗文化財「田遊び」
長徳元(九九五)年京都北野神社より勧請する。道真公は平安朝時代の学者で右大臣に任ぜられ、のち藤原時平の嫉にあい九州の太宰府に流されてその地にて没す。没後は天神とあがめられ、学問、能筆の守り神として庶民の間に崇敬をあつめている。
無形文化財「田遊び」は、毎年二月十一日夜間、五穀豊穣を祈願して行なわれる。この夜地の神を招き、農家一年間の行事を所作と唄で表わす古い形を残した祭りである。
また、毎年五月には獅子舞が行なわれ、悪疫の退散と子供の無事生長が祈願される。(板橋区教育委員会掲示より)
徳丸北野神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの神社」
- 東京都神社名鑑