縁切榎|板橋区本町の名所旧跡

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縁切榎|旗本近藤登之助の抱屋敷内に植えられていた榎の古木

縁切榎の概要

縁切榎は、板橋区本町にある名所旧跡です。縁切榎は、旗本近藤登之助の抱屋敷内に植えられていた榎の古木で、いつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになったといいます。縁が切れるという俗信から、嫁入りの際にはこの道を避け、和宮が徳川慶喜との結婚で文久元年(1861)江戸へ下向した際には迂回路も造られたそうです。

縁切榎
縁切榎の概要
名称 縁切榎
みどころ 名所
区分 板橋区登録文化財
住所 板橋区本町18-10
備考 -




縁切榎について

縁切榎は、旗本近藤登之助の抱屋敷内に植えられていた榎の古木で、いつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになったといいます。縁が切れるという俗信から、嫁入りの際にはこの道を避け、和宮が徳川慶喜との結婚で文久元年(1861)江戸へ下向した際には迂回路も造られたそうです。

板橋区掲示による縁切榎について

江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。
板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(一八六一)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約一キロメートルの道のりでした。
なお、この時に榎を菰で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あたらかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は、難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。(板橋区教育委員会掲示より)

「いたばし郷土史事典」による縁切榎について

縁切榎(本町三三番地)
一説によると古くから榎(エノキ)と欅(ツキノキ)が双生していたため略してエンツキと読み、縁がつきるとこじつけ、縁が切れるという俗信が生まれたという。又本郷で油屋を盛大に営んでいた伊藤身禄(富士講の中興者)にまつわる話がある。少年時代から富士山上で死にたいと決心をしていた身禄は、ある日莫大な財産と中山道板橋宿の大きな榎の下まで追ってきた家族を残して、ひとり富士山へ向かって旅立った。そして富士吉田口の登山路をきり拓き七合目で死んだ。後にこの大榎を縁切榎と名づけたという。文久元年(一八六一)に皇女和宮の将軍家茂に降嫁の時は、この榎を梢まで菰でつつみ、見えないようにして通った。昭和六一年区記念物に登録。(「いたばし郷土史事典」より)


縁切榎の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「いたばし郷土史事典」