飯上山長谷寺。坂東三十三所観音霊場飯山観音堂
長谷寺の概要
高野山真言宗寺院の長谷寺は、飯上山如意輪院と号します。長谷寺は、神龜年間(724-729)に豊澤という地の清泉より出現した十一面觀音を、行基菩薩が腹ごもりとして観音堂として開基、大同2年(807)に真言宗の道場としたといいます。永仁2年(1294)には坂東三十三所観音霊場6番札所に選ばれ、天正19年(1591)には徳川家康より観音堂領3石の御朱印状を受領しています。東国花の寺百ヶ寺です。
山号 | 飯上山 |
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院号 | 如意輪院 |
寺号 | 長谷寺 |
本尊 | 十一面観音像 |
住所 | 厚木市飯山5605 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長谷寺の縁起
長谷寺は、神龜年間(724-729)に豊澤という地の清泉より出現した十一面觀音を、行基菩薩が腹ごもりとして観音堂として開基、大同2年(807)に真言宗の道場としたといいます。永仁2年(1294)には坂東三十三所観音霊場6番札所に選ばれ、天正19年(1591)には徳川家康より観音堂領3石の御朱印状を受領しています。
新編相模国風土記稿による長谷寺の縁起
(飯山村)觀音堂
飯山寺と號し(觀應元年の文書にも、此寺號見ゆ)、長谷の觀音と唱ふ(嘉吉二年の鐘銘に飯山新長谷寺と彫る)、本尊十一面觀音(長三寸五分、)は閻浮檀金の像なり、神龜年間堂地より西方四町程字豊澤と云所の清泉中より出現すと云、今行基作同像(長五尺八寸、)の腹籠りとす、又同作の像を置(長三尺五寸、元は彼黄金佛を此像を腹籠とせしと云傳ふ、)神龜二年行基開闢(按ずるに、嘉吉の鐘銘には行基再興の靈場とあり)の地にして大同二年弘法密宗の道場とす、永延二年坂東順詣の札所第六番となる、建久中源頼朝秋田城介義景をして造營を加へしめしと云(注釈を読む)
、觀應元年十二月高播磨守師冬追討の時、鎌倉管領左馬頭基氏當寺に發向し、遂に大住郡日向山に至りし事、善波太郎七郎有胤の款状に所見あり(注釈を読む)
、嘉吉二年の張る回録に罹り、繼で堂宇を再造す(後に鐘銘に見ゆ)、天正十九年十一月觀音堂領三石の御朱印を賜ふ、毎年三月二十一二の兩日に法會あり
【什寶】
神代鏃一枚(長一寸五分水晶の如し)
須彌山石二顆(一は黒色、一は白色、各長二寸、)
鐘樓。嘉吉二年鑄造の古鐘をかゝぐ(銘文省略)
札堂。正観音を置、
天神社。
金毘羅社。
老楠一株。大さ十圍餘
仁王門。
別當長谷寺。飯上山如意輪院と號す、古義眞言宗(高座郡河原口村総持院末、按ずるに、嘉吉の鐘銘に據れば、當時は村内金剛寺の末なりと見ゆ)、本尊如意輪観音(長六寸行基作)外に地蔵(長三寸惠心作)を置、開山行基中興僧蔵海(明徳元年八月十五日卒、)
鐘樓。享保九年に新造す、鐘は常時四年に鑄造せしものにて村内金剛寺の鐘なり(銘文あれど漫滅して年號及華嚴山金剛律寺の數字のみ見えたり、【坂東觀音靈場記】に、此鐘往昔風雨雷鳴の夜に失ひ、近代夢の告あり地中を穿て得たり、據て土俗飯山の隠鐘と稱すと記せり)(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による長谷寺の縁起
新編相模国風土記稿の一部転載のみなので省略(「厚木市史史料」より)
長谷寺所蔵の文化財
- 銅鐘(嘉吉二年)一基(神奈川県指定重要文化財)
銅鐘(嘉吉二年)一基
本銅鐘は室町時代の嘉吉二年(一四四二)の年紀を有し、刻銘には銅鐘製作の経緯が細かく記されています。それによりますと、毛利庄飯山の新長谷寺が嘉吉二年の春、火災により焼失したため、新堂宇の再建に先立ち、人々の銅鐘鋳造への強い思いから、麓の金剛寺住僧であった誾勝が、多くの信者から寄付を募り、同年の四月五日に完成したといいます。
焼失から短期間のうちに再建がはかられたことは観音堂、新長谷寺、金剛寺の力が大きなものであったことを示しています。
鐘を製作したのは、飯山の鋳工大和権守清原國光、銘は建長寺の心林によるものです。
『新編相模国風土記稿』の飯山村観音堂の項には、観音堂は長谷の観音といい、飯山寺と号し、別当は長谷寺であると記されています。
中世飯山の寺院に係る信仰活動や飯山の鋳物師の様相を知ることができる貴重な銅鐘であるといえます。(厚木市教育委員会掲示より)
長谷寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」