華巌山金剛寺。国重文木造阿弥陀如来坐像
金剛寺の概要
曹洞宗寺院の金剛寺は、華巌山遍照院と号します。金剛寺は、大同2年(807)に弘法大師が開基、飯山観音堂の別当寺を長年勤めてきたといいます。南北朝時代の混乱により衰微してしていたのを天文年間(1532-1555)清源院4世忠州(天文15年卒)が当寺を再建、曹洞宗に改めたといいます。徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)寺領5石の御朱印状を受領しています。
山号 | 華巌山 |
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院号 | 遍照院 |
寺号 | 金剛寺 |
本尊 | 十一面観音像 |
住所 | 厚木市飯山5456 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金剛寺の縁起
金剛寺は、大同2年(807)に弘法大師が開基、飯山観音堂の別当寺を長年勤めてきたといいます。南北朝時代の混乱により衰微してしていたのを天文年間(1532-1555)清源院4世忠州(天文15年卒)が当寺を再建、曹洞宗に改めたといいます。徳川家康が関東入国した際には天正19年(1591)寺領5石の御朱印状を受領しています。
新編相模国風土記稿による金剛寺の縁起
(飯山村)金剛寺
華嚴山遍照院と號す、曹洞宗三田村清源院末、本尊釋迦、寺傳に云、大同中空海開基の靈場なり、按ずるに【東鑑】壽永元年五月の條に當國金剛寺の僧侶等解状を捧、古庄近藤太の非法を出訴せし事所見あり(詳細中略)其寺今孰れにあるや、正しき證を得、蓋當寺古跡の殘れる様を以て考れば、即この寺の事なるべし、今長谷寺にかくる貞治四年の古鐘は、即當寺の鐘なり(華嚴山金剛律寺の數字を鐫る)又觀音堂嘉吉二年の鐘銘にも當寺の住僧誾勝の名見えたり(按ずるに、鎌倉圓覺寺所蔵、文安六年の綸旨にも此僧の名見ゆ)、然るに後年漸衰微し、寺號大師の影堂のみ纔に殘りしを天文中僧忠州(本寺四世、天文十五年七月朔日卒)關本(足柄上郡の屬)最乗寺輪番の序當所の觀音及當寺の大師堂に禮拝通夜せし時、護神の告に任せ、輪番畢て此所に来り、再建して今の宗派に改む、因て忠州を開山とせり、天正十年新田日向村内の山林を寄附す(所蔵文書曰、此度御所望付而進置候山之事、北者中山道場屋鋪之道を切而、南者熊野之宮を切而、西者白山之下澤を切永代進置候、若木草一本も切申牛馬放者就有之者我等在郷之砌、可被仰付候、急度支置可仕候、爲末代之證文進候、仍如件、于時天正拾歳三月五日飯山之郷金剛寺新田日向花押、按ずるに、熊野・白山の兩社今村内にあり、中山道場屋敷は詳ならず)、天正十九年寺領五石の御朱印を賜ふ、
【寺寶】
錫杖一握。
銅鉢一口。
唐銅水瓶二口。以上の三品は弘法所持の物と云傳ふ。
阿彌陀堂。丈六の像を置、又弘法作の彌陀(長五寸、一夜千躰の彌陀と云、)を安ず、古の本尊なり、
大師堂。空海三十四歳の時自作の像長一尺六寸を置
衆寮
安達藤九郎盛長墓。五輪の塔なり梵字を刻す、寺傳に法名盛長院三空道無大居士と號す、治承の頃盛長當所に来り靈地なるを感じ、卒後其遺骨を送りて葬すと云(三田村にも盛長の墓あり)(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による金剛寺の縁起
華巌山遍照院金剛寺
曹洞宗の寺で三田清源院の末寺である。
本尊釈迦如来。弘法大師開基。古くは長谷寺と関係を有し鎌倉時代の記録「東鑑」寿永元年五月の条に相模国金剛寺僧侶等捧解状云々の項にあるのは当寺である。寺宝に錫杖銅鉢、唐銅水瓶等当時の遺物がある。参道にある阿弥陀堂には同時代の阿弥陀仏像(国重要文化財指定)もある。天文年間清源院四世忠州和尚に依って中興され、現在の曹洞宗に改宗される。御朱印高五石が下附され、古くは七堂伽らんの建物がありその絵図が残っている。金剛寺の参道入口に近く、黒地蔵、白地蔵を安置した堂宇があったが、黒地蔵は金剛寺内に安置されている。白地蔵堂には江戸時代の末、俳人つぶね房れい翁が住していた。
大師堂
金剛寺の側に四間に三間半の御堂があって中に弘法大師の尊像を安置してある。寺伝によると大師三十四才の時の自作の像であるという。創建は大同年間とある。(「厚木市史史料」より)
金剛寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)
- 木造地蔵菩薩坐像(神奈川県指定重要文化財)
銅鐘(嘉吉二年)一基
木造阿弥陀如来坐像は、像高一三九・三cm、檜材を使った寄木造りで、彫眼・白毫・肉髻珠には水晶をはめこんでます。細かく彫りだされた螺髪や丸みのある面や身体など、平安時代後期に全国的に流行した定朝様式の特徴を示し、関東地方における同様式の代表作といえます。像内各所の墨書から、永享年間(一四二九-一四四〇)以降に数度の修理が行われたことがわかります。もとは金剛寺境内にあった阿弥陀堂に安置されていたと思われます。
木造地蔵菩薩坐像は、像高八四・二cm、頭体部を檜材の割矧ぎ法によって彫成されています。像内の銘により、正安元年(一二九九)に院慶とみられる仏師により造られたことがわかります。年代、作者がわかる鎌倉時代の貴重な作例です。別名「身代わり地蔵」や「黒地蔵」ともいわれ、もとは庫裏橋のそばにあった黒地蔵堂に安置されていました。
現在両像は、金剛寺の収蔵庫及び本堂内に安置されています。(厚木市教育委員会掲示より)
金剛寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」