寶谷山長福寺。小田急沿線三十三ケ所観世音霊場15番
長福寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の長福寺は、寶谷山と号します。長福寺は、慶安元年(1648)元毛利庄厚木郷谷村に普門寺と号して創建、慶安2年(1649)には幕府より寺領6石5斗の御朱印状を受領、後当地へ移転して長福寺と改号したといいます。小田急沿線三十三ケ所観世音霊場15番です。
山号 | 寶谷山 |
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院号 | - |
寺号 | 長福寺 |
本尊 | 釋迦牟尼仏像 |
住所 | 厚木市寿町1-11-12 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長福寺の縁起
長福寺は、慶安元年(1648)元毛利庄厚木郷谷村に普門寺と号して創建、慶安2年(1649)には幕府より寺領6石5斗の御朱印状を受領、後当地へ移転して長福寺と改号したといいます。小田急沿線三十三ケ所観世音霊場15番です。
新編相模国風土記稿による長福寺の縁起
(厚木村)長福寺
臨済宗(鎌倉建長寺末)寶谷山と號す、本尊三尊彌陀、又釋迦(昔は別當ありしと云)、を安ず、慶安二年六石五斗の御朱印を附せらる(則釋迦堂領に賜ふ所なり)、當時古は村の西方に在て普門寺と號せしを後今の地に移し、寺號を改めし由戸室村浄雲寺記録に見えたり、今西方に長福寺古屋敷或は普門寺等の字あり、按ずるに、長福寺古屋敷とは移轉の後に名づくれば後の寺號を稱せるならん、されど別に普門寺の字あれば若くは當時兩寺ありしを、合して移せしも知るべからず、今は移轉の事をも寺に傳へざれば詳なる事は知るに由なし、開山密室守嚴(明徳元年六月九日卒)中興法舟玄蓮(貞享二年八月四日卒)、堂中に古領主水野氏の位牌二基(一は勝成の牌にて大磯院殿前日州太守参康宗休大居士、年月知れず十五日とあり、按ずるに慶安四年三月なり、一は勝俊の牌なり、信解院殿前四品作州太守理圓日障大居士年月知れず、廿一日と記す、是は承應四年二月なり)を置く、
天神稲荷合社
辨天社(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による長福寺の縁起
宝谷山長福寺(寿町1-11-12)
「新編相模国風土記稿」当寺古は村の西方に在て普門寺と号せしを、後今の地に移し、寺号を改めし由戸室村浄雲寺記録に見えたり。今西方に長福寺古屋敷或は普門寺等の字あり。按ずるに長福寺古屋敷とは移転の後に名づくれば、後の寺号を称せしならん。されど別に普門寺の字あれば若くは当時両寺ありしを、合して移せしも知るべからず。今は移転の事をも寺に伝えざれば、詳なることは知るに由なし。」
「小田急沿線三十三ケ所観世音霊場縁起」昭和十一年
第十五番 長福寺
当山ハ第百十代後光明天皇の慶安元年、元毛利庄厚木郷谷村に創立せられ、村名に因みて宝谷山と号す。元禄十六年霜月二十三日の大地震に逢ひ、堂塔伽藍尽く倒潰し悲惨を極む。依て現住たりし当山第六世観禅碩音和尚は己が守護本尊たる観世音大慈大悲の功力を念じ、再建復興を発願し日夜懈りなきこと実に三十有二星霜、普く大衆への化縁勧募に努められしが、其念願空しからず第百十四代中御門天皇の享保十六辛歳現地に於て再建の機至り、茲に堂字仏像等全く整備し又往時の盛観を見るに至れり。安置せる三尊は霊験ならず人呼んで持蓮観音と称し遠近の信徒崇敬渇仰す。(「厚木市史史料」より)
長福寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」