明治山神田寺。坂上田村麿祈念仏の青銅十一面観世音掛仏像
神田寺の概要
東寺真言宗寺院の神田寺は、明治山と号します。神田寺は、征夷大将軍坂上田村麿が奥羽征討の途中当地に滞留、陣中の祈念仏銅造十一面観世音掛仏坐像を安置し創建したといいます。江戸期には横内山智正院と称し、横内御霊神社の別当を務めていましたが、江戸時代末期には衰廃、明治維新後に神仏分離となり、大神寄木神社の別当を務めていた寄木山観音寺・田村八坂神社の別当を務めていた南向山円光院と3寺合併し、明治山神田寺と改称しています。
山号 | 明治山 |
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院号 | - |
寺号 | 神田寺 |
本尊 | 十一面觀世音像 |
住所 | 平塚市横内455 |
宗派 | 東寺真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
神田寺の縁起
神田寺は、征夷大将軍坂上田村麿が奥羽征討の途中当地に滞留、陣中の祈念仏銅造十一面観世音掛仏坐像を安置し創建したといいます。江戸期には横内山智正院と称し、横内御霊神社の別当を務めていましたが、江戸時代末期には衰廃、明治維新後に神仏分離となり、大神寄木神社の別当を務めていた寄木山観音寺・田村八坂神社の別当を務めていた南向山円光院と3寺合併し、明治山神田寺と改称しています。
神田寺栞による神田寺の縁起
明治山神田寺
創建年代は定かではありませんが、平安時代初期の桓武天皇の御世、征夷大将軍坂上田村麿が奥羽征討の途中、当寺に滞留し、軍馬を境内に繋ぎました。そして陣中の祈念仏である、守り本尊、青銅十一面観世音掛仏坐像(身丈八寸二十五厘)を安置、東国平定鎮護国家の祈願を修せられました。現在のこの地の小字名の「轡形」は、この時の馬の轡から起因していると言われています。
(中略)
江戸時代初期の元和年間から寛永年間(一六二〇年前後)(徳川秀忠、家光)に至り、法印長盛が寺を中興しました。しかし、天保の頃(一八三〇年頃)から荒廃に傾き、寺寶、古文書、庫裡、長屋門、土蔵、鐘楼、梵鐘に至るまで皆失われたと伝えられています。
元は横内山智正院と号しました。明治四十二年同じ真言宗の大神寄木神社別当の寄木山観音寺、田村八坂神社別当の南向山円光院と横内御霊神社別当の横内山智正院(当寺)の三か寺が合併し、当時の年号と村の名をとって明治山神田寺と改称され今日に至っています。(神田寺栞より)
新編相模国風土記稿による神田寺の縁起
(田村)
智正院
横内山と號す(同末:平塚新宿等覺院末)、本尊十一面觀音(村内御靈社の本地佛なり)、
鐘樓。寛文元年鑄造の鐘を掛、
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圓光院
南向山と號す、宗派前寺に同じ(古義眞言宗)(平塚新宿等覺院末、)、本尊不動、外に辨財天(背に手形あり、其内に天長七年七月七日、於江島辨財天、法秘密護摩萬座、奉修行、以其灰、此形像作者也、空海とあり)を安ず、
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(大神村)
寄木明神社
△別當觀音寺。寄木山と號す古義眞言宗、(平塚新宿等覺院末、)正觀音(長四尺、行基作、)を本尊とす、(明神の本地佛なり、)(新編相模国風土記稿より)
神田寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿