能満寺。伊勢原市三ノ宮にある臨済宗建長寺派寺院

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能満寺。無印素文禅師大和尚が開山

能満寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の能満寺は、福智山と号します。能満寺は、無印素文禅師大和尚が開山となり貞和元年(1345)創建、鎌倉明月院渕心玄龍和尚が当山七世となり寛文5年中興したといいます。慶安2年(1649)寺領7石の御朱印状を受領、近隣に末寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。

能満寺
能満寺の概要
山号 福智山
院号 -
寺号 能満寺
本尊 虚空蔵菩薩像
住所 伊勢原市三ノ宮1273
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



能満寺の縁起

能満寺は、無印素文禅師大和尚が開山となり貞和元年(1345)創建、鎌倉明月院渕心玄龍和尚が当山七世となり寛文5年中興したといいます。慶安2年(1649)寺領7石の御朱印状を受領、近隣に末寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。

新編相模国風土記稿による能満寺の縁起

(三之宮村)能満寺
福智山と號す、臨済宗鎌倉建長寺末、開山無印素文貞和三年七月朔日卒、本尊虚空蔵。慶安二年寺領七石の御朱印を賜ふ、按ずるに、三宮明神社、延宝四年の鐘銘に當寺彼社の別當たりし事見ゆ、今其傳へなし。
稲荷社。地蔵堂。(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による能満寺の縁起

当山は霊峰大山に弘法大師が住持された頃にさかのぼります。弘法大師は室戸岬で虚空蔵菩薩をお唱えする求聞持法という修行をされて初めて悟られました。弘法大師は三ノ宮大明神には寺門派の僧侶が別当を務めるようになりました。鎌倉時代になると源頼朝公は寺門派の寺として鶴岡八幡宮寺を鎌倉に建立されます。三ノ宮大明神別当はことある度に鎌倉へ赴いて読経し法要をしました。北条政子は大明神の端に浄業寺を建立します。相模風土記には三ノ宮大明神に安産祈願を請い誦経させ神馬を奉納したとあります。三ノ宮氏はこの頃頼朝公と共に京都まで赴いていますが後に足利尊氏公と対立し戦に負けてその殆どを焼失してしまいます。臨済宗に帰依する尊氏公は虚空蔵菩薩信仰に因み筑前で再起を図った虚空蔵菩薩の霊峰福智山を思いだし福智山能満寺と山号寺号をあらためました。さらにそのような当山の高徳を称え寺領二千貫を与え永世祈祷所として定められました。この時貞和元年(一三四五年)、了堂素安(禅興寺四世建長寺三十五世了堂素安の膝下で研鑽した無印素文禅師大和尚)が開山として鎌倉より来られました(大覚禅師-同源同本-了堂素案-無印素文)禅興寺は北条時頼が建てた最明寺のことで後に北条時宗によって蘭渓道隆、大覚禅師を開山に寺号を改めました。十刹に数えられるほど由緒のある寺でしたが今では塔頭の明月院(別名あじさい寺)を残すのみとなっています。前出の浄業寺も荒廃し江戸時代になって再興されたときには臨済宗(後に別れて黄檗宗となる)とされており、能満寺の末寺である高嶽院と共に大明神の別当勢力下に入りました。
その後両上杉氏の争いの兵火のため文明十年、殿堂、古記焼失し六代まで再建出来ませんでした。当山七世渕心玄龍和尚が鎌倉明月院より来られて、寛文五年に殿宇を再興され中興開山となられました。その当時の本堂(方丈)は、間口九間半、庫裏は間口十一間半、奥行き五間半と言う大きなものでした。その他本尊虚空蔵菩薩の外に脇仏として達磨大師や焦面鬼大王などを安置されたと記されています。また表門、二天門、鐘楼、稲荷大明神(鎮守)地蔵堂等を兼備していたと伝えられます。寺領としては、当時の大将軍徳川家光公により慶安二年八月二十四日付で御朱印七石を賜り、その後七回に亘り下賜され徳川家の恩恵を受け末寺四ヶ寺(江戸初期は七ヶ寺)の本寺として栄えました。
江戸時代も末期にさしかかり、弘化五年、乞食の不詳火により類焼を免れず殿堂、庫裏を焼失、ただ本尊様を守り得たのみで物置を残して全焼の災難に遭いました。現在の本堂はその後十七世石門和尚が春日の局御寄進による大山寺の客殿を払い受け本堂に改修されたものと言われています。(境内掲示より)


能満寺の周辺図