宗三寺。准秩父三十四札所観音霊場
宗三寺の概要
曹洞宗寺院の宗三寺は、瑞龍山と号します。宗三寺の創建年代は不詳ですが、鎌倉時代にあった禅宗勝福寺を起源とするものと伝えられています。勝福寺は、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となり泰綱の代には檀越となるなど頗る繁栄したといいますが、その後衰退、戦国時代に小田原北条氏の家人間宮豊前守信盛(法名瑞龍院雲谷宗三)が開基となり中興、末吉村寶泉寺第四世僧自山を招いて中興開山し、瑞龍山宗三寺と号したといいます。准秩父三十四札所観音霊場20番です。
山号 | 瑞龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗三寺 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
住所 | 川崎市川崎区砂子1-4-3 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | 宗三寺養光閣 |
備考 | - |
宗三寺の縁起
宗三寺の創建年代は不詳ですが、鎌倉時代にあった禅宗勝福寺を起源とするものと伝えられています。勝福寺は、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となり泰綱の代には檀越となるなど頗る繁栄したといいますが、その後衰退、戦国時代に小田原北条氏の家人間宮豊前守信盛(法名瑞龍院雲谷宗三)が開基となり中興、末吉村寶泉寺第四世僧自山を招いて中興開山し、瑞龍山宗三寺と号したといいます。
川崎市掲示による宗三寺の縁起
中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
「江戸名所図会」に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髯、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紉を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。(川崎市掲示より)
新編武蔵風土記稿による宗三寺の縁起
(川崎宿砂子町)宗三寺
北側にて小土呂町の境にあり。往還より奥の方32間程に表門たてり、瑞龍山と号す。禅宗曹洞派にて郡中末吉村寶泉寺の末寺なり。寺伝を閲するに鎌倉右大将頼朝の時代、僧領室玄統の開闢する所にして、初めは臨済宗鎌倉建長寺の末山なり。これよりさきも庵室にて久しく薬師堂を別当せしと云。其薬師は己に前に出せし教安寺の本尊是なり。然るに佐々木四郎左衛門高綱此邊を領せしとき、当寺を菩提寺と定め、砂子一村を寄附せしゆへ、頗寺門繁昌せしと云。按に其頃のことは寺伝にも詳にいはざれば、山号寺号ともに傳はらず、因に云今上総国望陀郡奈良輪村坂戸明神の社頭に古鐘一口あり。其銘文を見るに此河崎庄内勝福寺と云寺の鐘にして、檀越佐々木壱岐守泰綱が名を彫りたれば、かたがたよしあるに似たり。されど牽強して当寺の旧号とするにはあらざれど、しばらく其文を左に記せり。
武州河崎荘内勝福寺鐘銘
盖聞洪鐘之響者、蘿洞之荘厳、法之聲音、禅侶之知識也、是以勧五千有余之人、鋳三尺寸余之鐘、廻向之趣非也、大檀越禅定比丘十阿、并従五位上行壱岐守源朝臣泰綱、大勧進僧頼俊、想結縁之諸衆除災与楽、現住南山之載保百二十二之籌、当生□之寶刹三十三品之蓮矣、
合数輩力、鑄一口金、響穿厚地、聲満夏冬、飛禽亡北、走獣転蹤、佛閣吐月、松房開?、
弘長三年癸二月八日
当寺院主僧隆祖、鋳物師源有貞
是にても川崎の地佐々木氏に所縁あること證すべし。又寺伝に後四百年の星霜を経て、法燈もたえだえなりしに、天正の頃小田原北条氏の家人間宮豊前守信盛、此地に住して近郷を領せし時、高綱が子孫たるを以当寺へ八町四方の地を寄附し己が領地の寺院、郡中末吉村寶泉寺第四世僧自山を中興開山とせしとぞ。信盛が法号を瑞龍院雲谷宗三と号す。寺号山号は此法謚の字をとりしと云々、按に此寺伝によれば昔の寺は一旦廃して僅に薬師堂及び佐々木社などの存せしを、信盛寺域を寄進して起立せしならん。又信盛を天正年中の人といひ、佐々木高綱が子孫なりと云ものは誤なり。信盛は高綱が父秀義の兄成頼が庶流にて、北条早雲及び氏綱へ仕へたれば、永正大永の頃の人なるべし。もと佐々木と同族なればゆかりにつきて当寺を起立せしならん。御打入の後宿内地割ありし時境内もせばまりて今の如くなりしと云。本堂は7間に5間、本尊は釈迦の坐像なり。側に中興開基間宮豊前守信盛、及び其子豊前守盛頼が法名をしるせし位牌を安ず。
鐘楼。門を入て右にあり。鐘の銘に云。
盖有土所無非寺、在寺処不非鐘矣、夫鐘者為法器之長、得以非可為外者、其是乎、武城之海南、橘樹郡川崎郷沙子村、瑞龍山宗三禅刹者、智濟之和上自山之開場也、其前雖在金鐘、今也破焉、嗚乎法者非鐘不行将、其非為鐸耶、故予刻於志而因以乞於戸戸集手、激門門片銭、而積而以鐘生故、
銘曰
法器長者 發佛本根 羅云打此 慶喜示痕
一扣如語 再撃欲言 妙音無方 美響雷奔
一聴除惑 普聞破昏 宜顯興化 因是吐呑
時延宝七己未大臘月吉祥日
瑞龍山宗三二世現住比丘昨寅叟謹誌
観音堂
本堂に向て左にあり。3間四面の堂なり。寺伝に云此観音は佐々木高綱の守本尊なりと。十三年に一度開帳して人に拝せしむ。今近郷札所三十四番の一なり。
中興開基間宮豊前守信盛墓
本堂の西南に当れる樹下にあり。碑面に当寺開基雲谷宗三居士と刻し、左右に宇田天皇皇子敦賀親王十六代佐々木間宮豊前守入道源康信とあり。側面に天和3癸亥年3月29日施主間宮孫兵衛盛重同金五郎盛正と彫る。この盛重盛正は父子にて共に大御番衆なりしが、盛正後に乱心して家廃せり。ここに豊前守が名乗を康信と記せしは誤なり。信盛が玄孫を三郎右衛門康信と示しなり。(新編武蔵風土記稿より)
新編武蔵風土記稿による元末寺養光寺について
(川崎宿砂子町)養光寺
佐々木社の北に隣れり。海栄山と号す。禅宗曹洞派にて宿内宗三寺の末山なり。本堂四間四方本尊薬師は木の坐像にて長三尺、行基菩薩の作なりと云。此薬師は木の坐像にて長三尺、行基菩薩の作なりと云、此薬師は延暦六年海中より波に打よせられしを土人取上て安置せり。それより遥に年を経て宗三寺の本堂として安ぜしが、当所町割の時の事にかありけん。別に当所へ堂を作りて安置し、宗三寺より僧を置て守らしめしが、かの寺第七世僧指月造営して一寺とせり。ゆへに是を開山とす。此指月は明和元年に寂せしと云ときは、一寺となりしはいと近き世の事なり。門に雨華薹の三字を扁す。(新編武蔵風土記稿より)
宗三寺所蔵の文化財
- 波多野伝右衛門一族の墓
- 遊女の供養碑
宗三寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿