妙海寺。川崎市中原区にある日蓮宗寺院

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妙海寺。木月村の村民鳥海讃岐が開基

妙海寺の概要

日蓮宗寺院の妙海寺は、普賢山と号します。妙海寺の創建年代等は不詳ながら、「文治3年春(1187)源右門匠義宗」とあり鎌倉時代以前には創建、薬師寺と号していたといいます。木月村の村民鳥海讃岐が開基となり、佛性院日正上人が天文3年(1534)に開山、近隣に末寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。

妙海寺
妙海寺の概要
山号 普賢山
院号 -
寺号 妙海寺
住所 川崎市中原区木月4-42-6
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙海寺の縁起

妙海寺の創建年代等は不詳ながら、「文治3年春(1187)源右門匠義宗」とあり鎌倉時代以前には創建、薬師寺と号していたといいます。木月村の村民鳥海讃岐が開基となり、佛性院日正上人が天文3年(1534)に開山、近隣に末寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。

新編武蔵風土記稿による妙海寺の縁起

(木月村)妙海寺
村の巽によりてあり、普賢山と號す、日蓮宗相州三浦郡大明寺の末なり、開山佛性院日正元亀二年正月二十日寂す、開山は當村の百姓鳥海讃岐といひしものなりと、此寺古へ薬師寺と號して庵のごとくにてありしを、天文年中かの讃岐が帰依にて一寺となし、今の寺號に改めたりと、客殿七間に六間本尊三寶祖師を安置す。
鬼子母神堂。客殿に向て左にあり、相殿に三十番神を安置す。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による妙海寺の縁起

妙海寺の歴史について
武蔵風土記によれば、妙海寺は普賢山と號し日蓮宗、相州三浦郡大明寺の末寺とあります。当寺は薬師寺と號し古く、現存する磬には「文治三年春(一一八七年)源右門匠義宗」と記して有り、又板碑には貞和六年(一三五〇年)と有り、いかにこの寺が古くから有るか想像できます。
妙海寺の創立は天文三年(一五三四年)であります。ちなみにこの天文三年は織田信長の生まれた年であります。その頃は、この近くに鳥海讃岐と云う人がすんで居ました。寒い冬も去った三月、疫病の為一家悉く床に臥し苦しんでいる中で、当主鳥海讃岐の夢まくらに薬師如来が現れ「明朝このあたりに諸国巡礼の高僧が通る。招じて祈祷を請え」とのお告げを受けました。果たせるかな、翌朝一人の旅僧が通りかかったので招じて祈祷を頼むと、たちどころに病が癒えたとあります。鳥海讃岐は大変喜び上人に帰依し、薬師寺を改め鳥海の海、妙法蓮華経の妙をとって妙海寺とし、上人を招請して住職としました。此の上人こそ京都布教の為下降して来た、仏性院日正上人でありました。その後上人は妙海寺を根拠として近隣の里人に仏法を説いて多くの信者を作り、その結果として門弟二世の日徳上人は鹿島田浄蓮寺を、門弟三世日広上人は上平間法田寺を、門弟四世日啓上人は北加瀬了源寺を開くに至りました。
徳川時代には、徳川二代将軍徳川秀忠の娘「和子」姫の祈願所となります。寛永元年十一月和子姫が宮家に入り、第百八代後水尾天皇の中宮(皇后)となります。中宮は東福門院と尊称され、毎年京都より使者の代参があり、宮家の庇護の下に栄えて来たので有ります。
東福門院様の親王が京都岩倉に實相院門主となります(石座門跡)。明治に火災で焼失した本堂は大変立派なものであったと聞いております。その折残った門は昭和二〇年戦災で焼けるまであり、茅葺きで立派な門で扉には菊の御紋章がついておりました。實相院の宮家が祈祷する時は、緋金の實相院菊の紋を入れた袈裟を許されたとの事。拝領の實相院菊の紋の入った「袈裟」「御令旨」と文箱書面並に東福門院様の「曼荼羅」が現存しております。(境内掲示より)


妙海寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿