妙光寺。小向村の里正田中和泉が開基、田中休愚所縁
妙光寺の概要
日蓮宗寺院の妙光寺は、田中山と号します。妙光寺は、小向村の里正田中和泉(慶長5年1600年没)が開基となり、その次男妙光院日是(寛永7年1630年寂)が開山、享保年間(1716-1735)に田中休愚が中興、堂宇を造営したといいます。田中休愚(丘隅)は、あきる野市平沢の出身で川崎宿本陣をつとめていた田中兵庫の養子となり、治水に大きな功績を残した人物で、川崎妙遠寺の功徳碑や広沢広済寺の回向墓など各所に彼の頌徳が称えられています。
山号 | 田中山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙光寺 |
住所 | 川崎市幸区小向20-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙光寺の縁起
妙光寺は、小向村の里正田中和泉(慶長5年1600年没)が開基となり、その次男妙光院日是(寛永7年1630年寂)が開山したといいます。享保年間(1716-1735)に田中休愚が中興、堂宇を造営したといいます。
新編武蔵風土記稿による妙光寺の縁起
(小向村)妙光寺
村の南にあり、田中山と號す、日蓮宗池上本門寺の末、開基は當村の里正源左衛門が家祖田中和泉といへり、慶長五年十一月三日卒す、開山は妙光院日是と云、俗姓は田中氏にて則開基和泉が第二子なり、寛永七年十一月示寂、其後享保年中田中休愚右衛門喜古中興して堂宇以下營造せりと、其人の事は下に出す碑銘に見えたり、客殿六間に七間本尊三寶祖師を安ず。
三十番神堂。門を入て左にあり二間に一間半。
田中喜古墓。客殿の右にあり、法名源心院速成
日解碑陰の銘に云(銘文省略)(新編武蔵風土記稿より)
妙光寺所蔵の文化財
- 田中休愚の墓
田中休愚(丘隅)は、あきる野市平沢の出身で川崎宿本陣をつとめていた田中兵庫の養子となり、治水に大きな功績を残した人物で、川崎妙遠寺の功徳碑広沢広済寺の回向墓など各所に彼の頌徳が称えられている他、中野島稲荷神社を創建したとも伝えられ、また稲毛神社の手洗石を奉納したともいいます。
田中休愚の墓
田中休愚は、江戸時代中期に活躍した人で寛文二年(一六六二)に武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都秋川市)で生まれました。
休愚は、二十歳過ぎに川崎宿の本陣である田中兵庫の養子となり、宝永元年(一七〇四)には、家督を継いで本陣の当主となりました。また、彼は問屋役などの重職も受け持ち、当時、財政負担や天災などで衰弱していた川崎宿の立て直しに腕を振るいました。
休愚の活躍は川崎宿のみにとどまらず、家督を甥の休蔵に譲ってからは、江戸などで勉学に励み、享保六年(一七二一)には、庶民の立場に立って論じた意見書『民間省要』を著しました。翌年、本書は将軍吉宗に献上されるまでになり、休愚への期待が高まりました。それからの休愚は、幕府に登用され、多摩川や二ヶ領用水の改修をはじめ、大岡忠相の指揮の下で、水害に悩む酒匂川の治水工事などの大事業を成しとげていきました。
休愚の功績は幕府に高く評価されて、享保十四年(一七二九)七月には、多摩川周辺三万石余を治める勘定支配格までになりましたが、その五ヶ月後、江戸において六十八歳の生涯を終えました。
休愚が永眠するここ妙光寺には、田中家代々の墓をはじめ、休愚のために建立された燈籠や石碑などもあり、庶民のために尽くした休愚の人柄が偲ばれます。(川崎市教育委員会掲示より)
妙光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿