能満寺。川崎市高津区にある天台宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

能満寺。もと影向寺の十二坊の一、準西国稲毛三十三観世音霊場、武相不動尊霊場

能満寺の概要

天台宗寺院の能満寺は、星王山寶蔵院と号します。能満寺は、もと影向寺の十二坊の一つとして行基菩薩が創建したと伝えられます。天文年間(1532-54)に当地に移転し快賢が開闢、観空(正徳四年1714年)が中興したといいます。準西国稲毛三十三観世音霊場16番、武相不動尊霊場6番、都築橘樹酉年地蔵尊霊場14番です。

能満寺
能満寺の概要
山号 星王山
院号 寶蔵院
寺号 能満寺
住所 川崎市高津区千年354
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



能満寺の縁起

能満寺は、もと影向寺の十二坊の一つとして行基菩薩が創建したと伝えられます。天文年間(1532-54)に当地に移転し快賢が開闢、観空(正徳四年1714年)が中興したといいます。

新編武蔵風土記稿による能満寺の縁起

(清澤村)能満寺
村の西にあり、字花井坂と云所なり、星王山寶蔵院と號す、天台宗多磨郡深大寺村深大寺の末山なり、開闢は行基菩薩なり、されど古きことにてもろより詳なる證もなければしばらくをきて、近き世の中興開基を観空と云、この人は正徳四年五月十五日寂せり、本尊は虚空蔵木の立像にて長三尺慈覚大師の作なりと、昔の本尊は聖徳太子の作り給ふ所なりしと云、これはいかがして失たりや今はなし、客殿は六間四方南向なり、門は柱間八尺前に石階二十八級あり。
鐘楼。客殿に向て左にあり、八尺四方、鐘銘は正徳四年二月十二日現住職観空鋳成の由、及當山は行基菩薩起立の古蹟なることを刻せり。
不動堂。客殿に向て左にあり、則護摩堂なり、本尊は木の坐像にて長三尺餘、この餘辨天及び松尾明神の像を安ず。(新編武蔵風土記稿より)

川崎市掲示による能満寺の縁起

もともと影向寺の塔頭十二坊(薬師さまを守る十二神の一体づつをまつった脇侍)のひとつであったのが、天文年間(1532-54)にここに移り快賢によって開かれたといわれます。現在の本堂は元文4年(1739)に建てかえられたものです。
本尊の木造虚空蔵菩薩像は寄木造りで、明徳元年(1390)仏師朝祐の作、玉眼入りの、漆地に彩色を施した立像で、卵形をしたひきしまった顔や複雑な衣裳のあつかいは宋朝彫刻の影響が認められ、強い精神性と神秘性が感じられます。同寺所蔵の一木造聖観世音菩薩像(平安初期の作)とともに市重要歴史記念物指定。(川崎市掲示より)

能満寺所蔵の文化財

  • 虚空蔵菩薩像(川崎市指定重要文化財)
  • 木造聖観世音菩薩立像(川崎市指定重要文化財)
  • 木造増田孝清坐像(川崎市指定重要文化財)

木造聖観世音菩薩立像・木造増田孝清坐像

当寺は、星王山寳蔵院と称する天台宗の寺院です。
本堂に祀られている秘仏の木造聖観世音菩薩立像(昭和四十一年十一月十五日・川崎市重要歴史記念物指定)は、量感のある一木造りで、着衣部の彫法から平安時代初期の制作と考えられています。
また、不動堂に祀られている木造増田孝清坐像(昭和六十年十二月二十四日・川崎市重要歴史記念物指定)は、寄木造、玉眼嵌入の僧形像で、胎内墨書銘や納入銘札から江戸時代前期の寛永十年(一六三三)、孝清六十五歳の時に、鎌倉仏師三橋日向守が制作したものであることがわかります。(川崎市教育委員会掲示より)


能満寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿