宗隆寺。階方新左衛門宗隆と本立寺住職興林僧都
宗隆寺の概要
日蓮宗寺院の宗隆寺は、興林山と号します。宗隆寺の創建年代等は不詳ながら、天台宗寺院で本立寺と号していたといいます。当地の地頭で池上本門寺の檀越でもあった階方新左衛門宗隆と本立寺住職興林僧都とに夢告があったことから、明応5年(1496)池上本門寺第八世貫主日調の師弟となり、日蓮宗に改め、興林山宗隆寺と改号したといいます。
山号 | 興林山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗隆寺 |
住所 | 川崎市高津区溝口2-29-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宗隆寺の縁起
宗隆寺の創建年代等は不詳ながら、天台宗寺院で本立寺と号していたといいます。当地の地頭で池上本門寺の檀越でもあった階方新左衛門宗隆と本立寺住職興林僧都とに夢告があったことから、明応5年(1496)池上本門寺第八世貫主日調の師弟となり、日蓮宗に改め、興林山宗隆寺と改号したといいます。
新編武蔵風土記稿による宗隆寺の縁起
(溝の口村)宗隆寺
下宿にあり、興林山と號す、日蓮宗池上本門寺の末寺なり、開山開基の由緒詳ならず、昔は天台宗にて本立寺と號せしとぞ、寺傳に明應五年時の住持興林僧都、或夜の夢に千眼天王より日宗歸依すべしと告を蒙りけるに、當所の地頭階方新左衛門宗隆と云、もとより池上本門寺の檀越にて法華信心の人なりしが、是も同夜に同靈夢を蒙り、語りあひて互に奇異の思ひをなしける、興林つひに池上に登りて本門寺第八世の貫主日調に謁して、師弟の約定をなす、日調頓て名を日濃と命ず、ここに於て新左衛門を以て開基とし、其名を號に用ひ、日濃が舊號を以山に名づけ今の山號寺號となれり。
或は云此事虚説なり、其實は興林日調と宗意を論じ、辭屈して改宗せしなりと、此日調は頗聰明の人なり、廿一歳にして關東の知識と呼ばれしとぞ、天正元年八月八日行年九十五歳にして寂す、後廿世日晋安永中に碑を境内に建て、其本末を記せり、客殿八間に六間半巽向なり、本尊三寳祖師を安ず。
千眼天王社。薬師堂山にあり、一間に一間半南向なり、神體は帝釋天長七寸許立身の木像、過去帳に千眼天王とは帝釋千名中の一の別號にて、帝釋もまた釋提桓因王事とあり、ここに祀れる千眼は則富士浅間にて、日蓮宗にては経文の字をとりて帝釋を祀といへり。當寺浅間の夢想によりて改宗せしゆへに祀れるなりと云、例祭十一月廿三日、此日村内に市たてり。
七面堂。薬師堂山南の端にあり、此所田野を見おろして眺望いとよし、堂は一間四方程にて拝殿三間に二間南向なり、神體は木の立像にて長七寸許岡の下に鳥居をたつ、例祭九月十七日なり。
鬼子母神堂。門を入て左にあり、二間四方艮向なり、鬼子母神の像の外に十二軀の木像あり、其内圓満具足天歓喜女の二軀は長一尺許、各胎籠の木像あり、胎中のものは運慶の作なりと云、其餘の十羅刹女は何れも長八寸許。
祖師堂。鬼子母神堂の並びにあり、三間四方是も艮向なり、開山開運日蓮と號す、長八寸許の座像なり、其縁起を按に明和年間荏原郡用賀村百姓八右衛門が妻、同村松林の中にて得し所にして、其事を領主へ訴へしかば、程へて後領主井伊掃部頭が代官某がはからひにて、村内密院眞福寺へ預けけり、時に安永二年なり、後此像の由緒を知る人ありて、其由を聞に、此像中老僧日法の作にして、碑文谷村法華寺の看経佛なりと、結縁のため塔頭岸の坊へ移しけるが、元禄年中此坊廢して、いつしか用賀村の松林に埋もれけるとぞ、然るに當村お農民彌次右衛門其弟六郎右衛門と云もの、當村の旦越にして信心厚かりければ、此像の他宗の寺院にあることを嘆きて、つひに眞福寺の十二世圭宥に請ひ、當寺の住持日義へ譲らしむ、これ安永六年十月なり、是より以来利益日々にあらたなりと云。
古碑七基。六基は庭前にあり、一は文和二年癸巳八月妙阿逆修とあり、一は文□六年八月十六日道慶禅門と彫る、此餘應永四年十一月と刻せしもの、大抵剥落して文字讀べからず、外の三基一字も讀べからず、又一基は墓所にあり貞治二年と彫る。
薬師堂山。客殿の傍より後背を續れる岡を云、此岡は村の西小名蔵山まで續けり、此寺の山林にて除地の數一段五畝五歩ありと云、是昔台宗を奉ぜし頃薬師堂ありしゆへの名なりとぞ、改宗の後は此堂は廢せしかど、其像は今荏原郡古川村の薬師これなりと云傳ふれど是も誤なり、天正年間に記せし縁起によれば、かの薬師と同作なりとあり、今村内に薬師免と字して一段餘の地あるは、其免除地の跡なるべしといへり。
千部塚。千眼社より少しく南にあり、廻り十四五間高さ八尺許、上に松樹兩三樹たてり、相傳ふ興林僧都改宗の時池上本門寺より、日蓮の像を與へければ開眼のため此所にて法華経千部を讀誦せしにより此名ありと云、又の傳へに左にはあらず、興林が手寫の経文千部を讀誦せしにより此名ありと云、又の傳へに左にはあらず、興林が手寫の経文千部を此所に埋て築きし塚なりともいへり。
第六天塚。千眼社の背後にあり、是も大さは大抵千部塚に同じ。
法泉坊。門外向て右の方にあり小菴なり、これ昔天台宗の時本立寺と號せしなごりに建置し坊にて、元はただちに本立坊といひしといへり、其舊地は今の蔵山の北に續きたる丘岡の麓にあり、今も其所に古碑六基あり、そこより北の方三十間許に諏訪社あり、其邊今陸田のひらけたる所は皆法泉坊の境内なりとぞ、今の地へ移りしは何のころにや、されど舊地にたてる石碑の内に享保年間のものあるときは、其後衰へて今の地へ移りしこと知らる、按に宗隆寺天正年間の縁起によれば、昔は法泉坊本立坊中正坊仙光坊の四坊と、富士浅間社人及び所化寮等ありしと云、其内法仙坊は元より日蓮宗にて中正仙光の二坊も寺家なれば、同寮を奉ぜしが、ただ本立坊は台家の寺跡など云されば本立法泉はもとより二坊にして、名を改しにはあらざるべし、二坊ともに衰へて後あはせてここに移せしなるべし、今本立坊の舊物なりとて、法螺貝一口名主が宅に傳へたり、其古色にてい長一尺圍一尺四寸餘なり、其證とすべきものなし。(新編武蔵風土記稿より)
宗隆寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿