瑜伽山真福寺|用賀村を開拓した飯田図書開基、玉川八十八ヶ所
真福寺の概要
真言宗智山派寺院の真福寺は、瑜伽山真如院と号します。真福寺は、用賀村を開拓した飯田図書(花巌院法誉善慶居士・天正6年1578年没)が開基、法印宗円和尚(天正6年1578年寂)が開山となり創建したといいます。玉川八十八ヶ所霊場39番です。
山号 | 瑜伽山 |
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院号 | 真如院 |
寺号 | 真福寺 |
住所 | 世田谷区用賀4-14-4 |
本尊 | 大日如来像 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真福寺の縁起
真福寺は、用賀村を開拓した飯田図書(花巌院法誉善慶居士・天正6年1578年没)が開基、法印宗円和尚(天正6年1578年寂)が開山となり創建したといいます。
せたがや社寺と史跡による真福寺の縁起
新義真言宗智山派に属し、総本山は京都智積院で、等々力の満願寺の末寺である。実相山真如院といったが、瑜伽山と改められ、古くから山門が朱塗りのため通称、赤門寺とも呼ばれている。本尊は大日如来、その坐像が本堂に安置され、九品仏の開山の珂碩上人の作といわれている。開山は法印宗円和尚で、天正6年(1578)6月20日示寂している。開基は用賀村を開いた飯田図書で、法名は花巌院法誉善慶居士といって、天正元年3月に歿している。
飯田帯刀・同図書の父子は小田原北条氏に仕えていたが、永禄・元亀年間(1558-1572)にこの用賀村にきて土着したといわれている。しかし用賀に土着してからは非常に勢力をもつようになり、苗字・帯万を許され彦根藩の代官職をつとめていた。その当時は2名の代官制をとり、その1名が飯田家であった。この代官も2代でやめ、つまり、宝暦(1751~1763)明和(1764~1771)の時代までで、それからは名主として重んじられていた。今も屋号を元名主の名で呼んでいる。
享和3年(1803)5月に本堂・庫裡とも焼失、古文書も失ったが後に再建された。昭和28年~29年に赤い山門を新築、昭和37年~41年にかけて本堂の修理、鉄筋2階建の庫裡が新築され、庫裡と本堂の聞には他の寺ではみられない太鼓橋、泉水がつくられている。
行事は仏寺の一般な年中行事だけであるが、お盆の行事は壇家300戸の家族づれが多く、墓どうろうをたてる夏の風物詩としてにぎわっている。境内に芭蕉の句碑がある。なお、明治12年ごろ京西小学校の仮校舎として使用されたようである。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による真福寺の縁起
(用賀村)真福寺
除地六段、小名下にあり、新義真言宗、等々力村満願寺末、實相山真如院と號す、開山宗圓和尚天正六年六月二十日示寂、開基飯田図書法名花巌院法誉善慶居士、天正元年死すといふときは、創建の年代も推て知るべし、本堂六間四面、本尊大日如来坐像を安ぜり。これは奥澤村浄真寺開山珂碩上人の作なり、上人は同宗の人にあらざれども、この像故有て當寺に安ずといふ、もとの本尊は何つの頃にか火災に罹りて焼失せり。
大日堂。本堂の右に在り、二間半四面。(新編武蔵風土記より)
真福寺の周辺図