長福寺。関本の三福寺、円覚寺百観音霊場
長福寺の概要
臨済宗円覚寺派寺院の長福寺は、関雲山と号します。長福寺は、応永33年(1426)に創建、子文法林和尚(文明2年1470年寂)が開山したといいます。下寺と称される龍福寺、上寺と称される廃寺善福寺(弘済寺預かり)と共に中寺の長福寺として、関本の三福寺と称され、三福寺が拡大された七福寺お寺めぐりの毘沙門天となっています。当地周辺に数多くあった塚田古墳群から出土した金銅製単鳳頭柄頭や刀鎧などが当寺に保管されている他、円覚寺百観音霊場第20番札所となっています。
山号 | 関雲山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 長福寺 |
本尊 | 十一面観音像 |
住所 | 南足柄市関本537 |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長福寺の縁起
長福寺は、応永33年(1426)に創建、子文法林和尚(文明2年1470年寂)が開山したといいます。下寺と称される龍福寺、上寺と称される廃寺善福寺(弘済寺預かり)と共に中寺の長福寺として、関本の三福寺と称され、三福寺が拡大された七福寺お寺めぐりの毘沙門天となっています。当地周辺に数多くあった塚田古墳群から出土した金銅製単鳳頭柄頭や刀鎧などが当寺に保管されている他、円覚寺百観音霊場第20番札所となっています。
境内掲示による長福寺の縁起
長福寺
塚田古墳
関雲山長福寺、通称中寺といわれていて、境内には昔から伝わる天神様があって多くの人々に尊崇されています。また近くの塚田古墳から出た銀の王冠や、鉄の直刀、けい甲(よろい)、馬のあぶみなど立派なものがたくさん保存されています。これらは、今から一、四〇〇年ほど前の人々の古墳から出たもので当時実力者が身につけていたものです。
このような支配者は、経済や政治などの面で強い力を持っていましたから古墳を作ることも出来たのです。
古墳の形にはいろいろありますが、この辺りのものは円墳といって円い形のもので、この中心部に石で積んだ部屋(石室)があって、その中に遺体を葬ったのです。そこには刀や王冠や首飾り、女の人なら耳輪や鏡などを一緒に葬りました。
関本の塚田は大雄山駅から役所までのあたりで、明治の頃は一〇〇近い古墳がありました。
これらの古墳は長い年月の間に、盛り上げらた土や粘土も削られ中の石室もたびたびの地震などで崩れ、表面は畑になったりして形を失ったものが多数あります。(南足柄市観光協会・南足柄市教育委員会掲示より)
「七福寺お寺めぐりin南足柄」掲示による長福寺の縁起
関雲山長福寺は鎌倉円覚寺を本山とする禅寺で、創立は応永33(1426)年です。本尊は十一面観世音菩薩、脇侍に毘沙門天と不動明王を据えています。開山は子文法林和尚で、「安産、長生きの観音さん」として地域の信仰を集めています。また、1400~1500年程度前の塚田古墳群から出土の金銅製単鳳頭柄頭、鉄製の刀や鎧などを寺に保管しています。円覚寺百観音霊場第20番札所。(「七福寺お寺めぐりin南足柄」掲示より)
「南足柄市史」による長福寺の縁起
関本村長福寺
同寺も極楽寺の末寺であった。文政四年(一八二一)以前に無住となり、「大借大破に相成」った。本山の円覚寺は長福寺を極楽寺の末寺から離し、直末直支配にする旨を伝えた。極楽寺は一応その旨を寺社奉行に嘆願したが、一方では開山や他宗に対して面白が立たないとして、寺社奉行に再考も嘆願している。天保九年(一八三八)の「御巡見御取調書上帳」には、長福寺は依然として「極楽寺末」となっている。(「南足柄市史」より)
新編相模國風土記稿による長福寺の縁起
(關本村)
長福寺
関雲山と號す、臨済宗(狩野村極楽寺末)、開山于文(文明二年八月廿七日寂)、本尊十一面觀音を置、
△鐘樓。寶暦十一年の鑄鐘を掛、
△天神社(新編相模國風土記稿より)
長福寺の周辺図
参考資料
- 新編相模國風土記稿
- 「南足柄市史」