葛西城址|葛飾区青戸の名所旧跡

猫の足あとによる東京都寺社案内

葛西城址|葛西城址公園・御殿山公園

葛西城址の概要

葛西城址は、葛飾区青戸にある名所旧跡です。葛西城址については、異説が多いのですが、葛飾区青戸7丁目の旧称御殿山が有力とされています。古くから古城跡という場所が青戸にあり、江戸幕府が遊猟のときの青戸御殿を葛西城址とされる当地に築いたことが「新編武蔵風土記稿」にも記されています。

御殿山公園
葛西城址
名所旧跡名 葛西城址
区分 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 葛飾区青戸7-21-7(御殿山公園)、
葛飾区青戸7-28-17(葛西城址公園)
備考 -



葛西城址の案内

葛西城址については、異説が多いのですが、葛飾区青戸7丁目の旧称御殿山が有力とされています。古くから古城跡という場所が青戸にあり、江戸幕府が遊猟のときの青戸御殿を葛西城址とされる当地に築いたことが「新編武蔵風土記稿」にも記されています。

環七整備の際に、発掘調査が行われ、多くの住居跡、井戸跡、板碑、宝篋印塔などが発見されましたが、葛西城に結びつく確実な史料は発見されませんでした。現在、環七東側を葛西城址公園、環七西側を御殿山公園として保存しています。

葛西城址について

葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。
築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱によって葛西城が落城したという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。
後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。
この葛西城が再び注目されるようになったのは、昭和40年代後半のことである。昭和47年から発掘調査が行われ、その結果、主廓を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
東京都内には中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないことから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は、発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である。
平成11年3月31日 東京都教育委員会(境内掲示より)

葛西城址異説について

葛西城址については、上千葉町(西亀有3丁目)の通称「大曲り」付近にあったとする説も強く、「千葉伝考記」に、千葉太郎実胤が下総葛西に住み、その地を千葉村と称したとあります。地形的にも奥州古道に面して、他地より若干高く城砦の址と思われる場所で、刑部の内、城の内、蔵の内、家老家、宿添、馬場などの地名が残っています。

新編武蔵風土記稿による葛西城址について

(青戸村)御殿跡
葛西城蹟附 西青戸の内にて今杉林となりけれど、猶歩數九畝の貢税を除かれて遺蹟を殘さしめらる、當時は構も廣かりしと見えて、今も四邊に上に載する大手以下の地名所々に殘れり、此御殿は東照宮以来御遊猟の時御憩息の所とせられしなれど、元是鎌倉将軍時代より要害を構て世々割據せし所なり、相傳ふ當時青砥左衛門藤綱居住すと、然れとも藤綱は上總國青砥庄を領して在名を名乗しと云は當所は、其領地にて宿館などを建し處にて常の居所にはあらさるへし、【小田原記】に、遠山丹波守は葛西城を守れりとあるは當所の事ならん、又【役帳】に遠山彌九郎葛西在城に付知行役御免とあれは、かた々々北條番手の城なりしこと知へし、其後も猶存せしと見ゆ、村民所蔵の記に慶長年中東照宮青戸古城に渡御有て、百姓藤右衛門を召御殿番役を命せられしとあり、又【寛永日記】に十八年正月廿五日大猷院殿御遊の時新宿近所大戸古城御殿に渡せられ、隅田川に至り給ふと云、又村の記に明る十九年古城殘なく廢却せられ、跡に御殿を建らるとあり、想に御入國後有来れり砦を修せられて、古城御殿など唱へしを、こゝに至て新に殿作に改させられしならん、或書に慶安二年三月七日荒川七兵衛・水上五兵衛二人葛西御殿奉行に命せらると云々、正保の國圖に當村の所に御殿と記せり、されは此頃まで猶御殿の存せしこと知らる、其後明暦三年に御殿を廢せられて其跡は大抵陸田となり、今纔に御坐所の跡のみを存せり、後貞享五年四月巡見使に書出せしと云縮圖あり、其圖を載せたれは照し見て當時を想像すへし、(新編武蔵風土記稿より)

葛西城址の周辺図


葛西城址の近隣にある名所