葛飾区の歴史|縄文海進終了から始まる葛飾区の歴史
石器時代から古墳時代まで
旧石器時代には陸地だった葛飾区を含む下町は、縄文海進によって海底にあったと推測されています。この縄文時代は、葛飾近辺はおろか、埼玉県越谷市や群馬県藤岡市あたりまで海が深く入り込んでいました。縄文海進が終り、弥生時代から古墳時代になると、(古隅田川や古利根川など)河川からの沖積によって、浮洲が点在するようになってきました。葛飾区立石の南蔵院や、葛飾区柴又の八幡神社から古墳が発見されおり、この頃から日本史上に登場します。
- 立石8丁目南蔵院(古墳)
- 埴輪・人物埴輪首部・土師器祝部
- 高砂7丁目畑地(住居跡)
- 土師器・須恵器・土錘・土製支脚
- 高砂7丁目理昌院三つ池(古墳)
- 祝部土器・板状石・丸石
- 青戸7丁目御殿山(古墳)
- 埴輪円筒・土師器・高坏
- 柴又八幡神社(古墳)
- 埴輪円筒・須恵器・直刀・刀子・人骨片
- 半田稲荷神社(古墳)
- 円筒埴輪・須恵器
- 柴又三丁目第六天社(古墳)
- 土師器・須恵器
- 金町浄水場内(古墳)
- 土師器・須恵器
この頃には、葛飾区の地名が<かつしか>として認知されていることが、万葉集に詠まれている和歌からわかります。
にほどりの 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを とにたてめやも
ただ、当時は東海道(海の道)を、伊豆から安房へ入り、上総、下総へと進むか、東山道(山の道)を信濃から上毛野、下毛野、武蔵、下総へ進むしかなく、後発地帯だったようです。特に葛飾区付近などは泥濘地帯で移動には不便を強いられたことでしょう。下総の国府(庁舎)が市川市国府台におかれていたことからも、推測できます。
奈良時代から平安時代にかけて
大化の改新を過ぎると、伊豆・相模から東京湾の西側を通って海沿いに進む道ができたようで、陸地化が進んできたと思われます。「養老五年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」にようやく、嶋俣里(柴又)、甲和里(小岩)など、現在地と比定できる地名が現れてきます。
平安時代末期になると、葛飾を含む関東地方が日本史で脚光を浴びるようになります。貴族政治が終りを向かえ、平将門の乱に始まる坂東武士の時代です。またこの頃、下総国葛飾郡は葛西郡、葛東郡に分かれたようです。少し後の時代の資料になりますが、1269年の「万葉集抄」に「葛飾郡中有大河云布止井、其河東、葛東郡、西云葛西郡…」とあり、布止井河(太日河、現在の江戸川)を境に葛東、葛西に分けて呼称されています。
この時代、葛飾郡周辺はほとんど、桓武天皇の孫高望王を祖先に持つ桓武平氏の一族が領有していました。高望王の孫将恒がはじめて秩父氏を唱え、子孫が武蔵・下総に根を張っていきました。秩父清光は豊島権守と称し、その長男朝経は豊島太郎と名乗り武蔵国豊嶋荘(現在の豊島区、北区、板橋区近辺)を領し、弟清重が、葛西清重として葛西を領有することになります。
奈良・平安時代に創立された社寺
- 遍照院(和銅3年710年)
- 水元猿町に創立、元亀2年(1571)中興
- 正福寺(668-749年)
- 行基が新小岩照明寺地に創立
- 半田稲荷神社(和銅4年(711))
- 東金町4丁目に創立
- 真勝院(大同元年(806))
- 柴又7丁目に創立
- 浄光寺(嘉祥二年(849))
- 東四つ木1丁目に創立、応永33年(1426)中興
- 熊野神社(長保元年(999))
- 立石8丁目に創立
- 宝持院(天養2年(1145))
- 青戸に創立
- 延命寺(嘉応元年(1169))
- 青戸に創立
- 正王寺(治承2年(1178))
- 堀切に創立
- 普賢寺(治承4年(1180))
- 東堀切に創立
平安末期から鎌倉時代
桓武平氏の子孫葛西清重は、源頼朝が石橋山の合戦で敗れて安房へ逃れたあと、いち早く源頼朝方につき、特に奥州征伐の時に大きな功績を挙げ、奥州五郡を与えられ、戦国大名へと発展していきます。葛西清重は敬神の念に篤かったため、所領の一部を伊勢大神宮・香取神宮に寄進しています。葛飾区の周辺はほぼ、葛西御厨と呼ばれる伊勢大神宮・香取神宮所領になりましたが、このおかげで数多くの資料が残っています。また葛飾区には天祖神社・香取神社が多いのもこのためです。
室町時代から戦国時代
鎌倉時代を終えると、荘園の維持が困難となり、葛西御厨は衰えていきましたが、葛飾区の寺院神社などから板碑が出土しています。また葛飾区は利根川、荒川が通って水運の要となっただけでなく、古鎌倉街道・奥州古道が通過している他、岩槻街道の起点でもあったことから、かなりの発展があったようです。この時代に葛西城があったことは資料から明らかですが、葛飾区青戸7丁目の御殿山(葛西城址公園)なのか、西亀有3丁目(旧上千葉町)の「大曲り」なのか未だ確定されていません。
国府台の合戦
戦国時代の終り頃、1538年と1564年の2度にわたり、安房の里見義尭・義弘父子と小田原北条氏綱・氏康によって国府台の合戦が行われました。旧利根川(現江戸川)を挟んで、市川市国府台に里見氏が本陣を、葛飾区葛西城(1回目)、立石(2回目)に本陣を置いて南は小岩、北は水元まで合戦が行われ、付近は兵糧米の徴収やぐんぷに狩り出されただけでなく、兵火にかかり、数多くの歴史史料を失いました。また中世的な社会組織を一掃し、近世への下地を作った大きな出来事です
江戸時代
国府台の合戦で、葛西郡は小田原北条氏の完全な支配下に入り、北条氏の下で整備が進みました。常総方面への要衝は石浜(荒川区)、寺島(墨田区)から、亀有・新宿へ移り、また新宿は葛西城の城下町として活況を呈しました。当時中川は亀有から青戸へは流れていなく、砂原(西亀有)、上千葉(宝町)、小菅方面に流れていたので、亀有と新宿は地続きで、新宿から北東へ金町・松戸へ進む水戸街道と南東へ小岩・市川へ進む佐倉街道との起点となりました。また生活文化圏としても下総から武蔵へと移っていきます
徳川家康の関東入国後、葛西郡は武蔵国に編入されました。また開墾が進み、小田原北条氏時代16ヵ村にしか過ぎなかった葛飾区内の村数は1643年には30ヵ村に倍増しました
- 新規新田
- 奥戸新田、曲金新田(細田)、鎌倉新田、小合新田
- 一村として独立した村
- 小菅、中原、砂原、梅田、宝木塚、篠原、四つ木、小谷野
また、将軍家が鷹狩りをする場合に昼食を摂ったり休憩する場所を御膳所といいますが、その御膳所が葛飾区に数多くありました
御膳所
- 亀有筋亀有村(亀有)祥雲寺
- 亀有筋亀有村(亀有)恵明寺
- 小菅筋上千葉村(小菅)蓮昌寺
- 西葛西筋立石村(立石)南蔵院
- 木下川筋木下川村(東四つ木)浄光寺
- 平井筋上小松村(東新小岩)正福寺
- 小菅筋小菅村小菅御殿
明治維新から現在
明治維新後、小菅県が設置され、明治2年から葛飾区は小菅県の下に置かれました。小菅県は東京の豊島郡豊島村、足立郡千住から、千葉県松戸、埼玉県越谷までを含む広範囲な県でしたが、明治4年の廃藩置県で小菅県はなくなり、現葛飾区江戸川区、墨田区江東区の一部から構成される東京府南葛飾郡となりました。
明治時代の7ヵ町村
- 奥戸町(昭和7年人口11365人)
- 奥戸村、奥戸新田、細田村、曲金村、鎌倉新田、上小松村、下小松村、諏訪野
- 亀青村(昭和7年人口6159人)
- 青戸村、砂原村、
- 金町(昭和7年人口10310人)
- 金町村、柴又村
- 新宿町(昭和7年人口4848人)
- 新宿町
- 本田町(昭和7年人口27390人)
- 立石村、川端村、淡ノ須村、中原村、梅田村、原村、渋江村、中原村、四つ木村、篠原村、宝木塚村
- 南綾瀬町(昭和7年人口20354人)
- 上千葉村、下千葉村、小菅村、柳原村・小谷野村
- 水元村(昭和7年人口4300人)
- 上小合村、下小合村、小合新田、猿ヶ又村、飯塚村
昭和7年に上記5町2村が併合して葛飾区となりました。
葛飾区の地名変遷
応永5年(1398) | 文禄2年(1559) | 江戸時代 | 現在地名 |
---|---|---|---|
青戸 | 青戸 | 青戸 | 葛飾区青戸 |
渋江 | 渋江 | 渋江・篠原 | 葛飾区四つ木・葛飾区東四つ木 |
小松 | 上小松 | 上小松 | 葛飾区東新小岩 |
下小松 | 下小松 | 葛飾区新小岩 | |
木庭袋 | 千葉袋 | 上千葉 | 葛飾区お花茶屋・葛飾区小菅・葛飾区西亀有・葛飾区東堀切 |
下千葉 | 葛飾区お花茶屋・葛飾区小菅・葛飾区堀切・葛飾区東堀切 | ||
嶋俣 | 柴俣 | 柴又 | 葛飾区柴又 |
亀無 | 亀梨 | 亀有 | 葛飾区亀有 |
曲金 | 曲金 | 曲金 | 葛飾区高砂 |
小鮎 | 小合 | 上小合 | 葛飾区水元小合上町 |
下小合 | 葛飾区水元小合町 | ||
小合新 | 葛飾区水元小合新町 | ||
金町 | 金町 | 金町 | 葛飾区金町・東金町 |
堀切 | 堀切 | 堀切 | 葛飾区堀切 |
飯塚 | 飯塚 | 飯塚 | 葛飾区水元飯塚町 |
猿俣 | 猿俣 | 猿ヶ又・水元猿 | 葛飾区水元猿町 |
奥戸 | 奥戸 | 奥戸 | 葛飾区奥戸 |
上平江 | 上平井 | 上平井 | 葛飾区西新小岩 |
上木毛河 | 木毛川 | 木下川(木根川) | 葛飾区東四つ木 |
立石 | - | 立石・川端・中原・梅田・原 | 葛飾区立石・葛飾区東立石 |