七社神社|西ヶ原村の総鎮守
七社神社の概要
七社神社は、北区西ケ原にある神社です。七社神社の創建年代は不詳ですが、無量寺境内に、七所明神社として祀られていたといいます。高野山四社明神と天照大神・春日・八幡の7柱を祀っていることから、七所明神と呼ばれ、西ヶ原村の鎮守でしたが、神仏分離令により、無量寺境内から、西ヶ原神明宮の社地(当地)へ遷座、神明宮を末社とし、七社神社として祀られているといいます。
社号 | 七社神社 |
---|---|
祭神 | 伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、品陀別命(応神天皇)、帝中日子命(仲哀天皇) |
相殿 | - |
境内社 | 神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社、疱瘡神 |
住所 | 北区西ケ原2-11-15 |
備考 | 西ヶ原村鎮守 |
七社神社の由緒
七社神社の創建年代は不詳ですが、無量寺境内に、七所明神社として祀られていたといいます。高野山四社明神と天照大神・春日・八幡の7柱を祀っていることから、七所明神と呼ばれ、西ヶ原村の鎮守でしたが、神仏分離令により、無量寺境内から、西ヶ原神明宮の社地(当地)へ遷座、神明宮を末社とし、七社神社として祀られているといいます。
新編武蔵風土記稿による七社神社の由緒
(西ヶ原村無量寺項)七所明神社
村ノ鎮守トス。紀伊国高野山四社明神ヲ祀リ天照大神・春日・八幡三座ヲ合祀ス。故ニ七所明神ト号ス。末社ニ天神・稲荷アリ(新編武蔵風土記稿より)
「東京都神社名鑑」による七社神社の由緒
創立年月日不詳。旧別当無量寺持のところ寛政五年(一七九三)火災にかかり古文書類焼失した。寛政六甲寅年(一七九四)九月再建。当時仏宝山無量寺境内にあって、「丹生七柱大神」と称し奉ったが、明治初年一本杉神明宮(現在地)の社地に移し祀った。明治二十六年本殿改築。大正九年社務所改築。昭和三年拝殿改築。昭和九年石造大鳥居を建立した。(「東京都神社名鑑」より)
北区教育委員会掲示による七社神社の由緒
この神社の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度売命、市寸島比売命、品陀別命(応神天皇)、帝中日子命(仲哀天皇)で、由来については寛政5年(1793)火災により社殿古記録等一切が焼失したためよくわかっていません。「新編武蔵風土記稿」には「村ノ鎮守トス」と記され、古くは別当寺であった無量寺の境内にあり、寛政6年再建後もそこに祀られていました。「江戸名所図会」にも、無量寺の裏の高台に描かれています。明治初年神仏分離の際、神明宮社地(現在の地)に移され(明治3年)、西ヶ原の総鎮守として奉祀されるに至ったものです。
末社には神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社があります。神明宮は天照大神を祭神としており、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社移転により末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木はその神木です。また旧社務所は村の青年会の発起で渋沢栄一、古河市兵衛を筆頭とする諸氏の寄附により大正9年建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。
なお、この境内から隣地にかけての一部は七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器、弥生式土器、土師器などが発見されています。(七社神社境内掲示より)
北区神社めぐりによる七社神社の由緒
七柱の神々を祀ることが社名の由来です。明治時代以前には旧古河庭園に祀られていましたが、明治初年に一本杉神明宮の現在地に遷座しました。大鳥居前に一里塚(日本橋より2里目)があり、旅人の守護神としての信仰もあります。(北区神社めぐりより)
七社神社の周辺図