佛寶山無量寺|江戸六阿弥陀、豊島八十八ヶ所、上野王子駒込辺三十三ヶ所
無量寺の概要
真言宗豊山派寺院の無量寺は、佛寶山西光院と号します。無量寺の創建年代等は不詳ながら、寺地からは14世紀頃の板碑が多数確認されており、鎌倉期から室町期にかけての創建ではないかといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領8石5斗余の御朱印状を拝領、9代将軍の幼名長福丸と同名であることを避けるため寺号を佛寶山長福寺から佛寶山西光院無量寺と改称したといいます。江戸六阿弥陀巡礼の3番目、豊島八十八ヶ所霊場59番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場3番札所、足止め不動として親しまれています。
山号 | 佛寶山 |
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院号 | 西光院 |
寺号 | 無量寺 |
住所 | 北区西ケ原1-34-8 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 不動明王像 |
葬儀・墓地 | 三宝会館、墓地募集中 |
備考 | - |
無量寺の縁起
無量寺の創建年代等は不詳ながら、寺地からは14世紀頃の板碑が多数確認されており、鎌倉期から室町期にかけての創建ではないかといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領8石5斗余の御朱印状を拝領、9代将軍の幼名長福丸と同名であることを避けるため寺号を佛寶山長福寺から佛寶山西光院無量寺と改称したといいます。
北区教育委員会掲示による無量寺の縁起
無量寺は佛寶山西光院と号し、真言宗豊山派に属する寺院です。創建年代は不明ですが、調査によって14世紀頃の板碑が多数確認されています。また、「新編武蔵風土記稿」や寺伝等には、慶安元年(1648)に幕府から8石5斗余の年貢・課役を免除されたことや、元禄14年(1701)4月に5代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣したこと、寺号が9代将軍家重の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことが記されています。
本堂の正面には、平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。江戸時代には、江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺、沼田延命院[現恵明寺]、西ヶ原無量寺、田端与楽寺、下谷広小路常楽院、亀戸常光寺)第三番目の阿弥陀として親しまれました。人々は春と秋の彼岸に極楽往生を願い、花見や紅葉狩りを楽しみながら各所の阿弥陀如来を巡拝していたようです。阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されています。言い伝えによれば、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝つかまったことから「足止め不動」として信仰されるようになりました。
また、大師堂の中には恵心作の聖観音像が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られています。(平成15年7月 東京都北区教育委員会)
新編武蔵風土記稿による無量寺の縁起
(西ヶ原村)無量寺
新義真言宗佛寶山西光院と號す、慶安元年寺領八石五斗餘の御朱印を附らる、古は田端村與楽寺の末なりしか、常憲院殿厳命を以て大塚護持院の末となれり、又昔は長福寺と稱せしを、惇信院殿の御幼名を避て今の寺號に改むと云、本尊不動外に正観音の立像を置長三尺五寸許惠心の作にて、雷除の本尊といへり、中興眞惠享保三年閏正月廿三日化す、今の堂は昔村内に建置れし御殿御取拂となりしを賜りて建しものなりと云、又境内に母衣櫻と名つけし櫻樹ありしか今は枯たり、母衣の名は寛永の頃御感ありし時名つけ給ひしと云傳ふ。
寺寶
紅頗梨色彌陀像一幅
八組大師像八幅
妙澤像一幅
不動像一幅
六字名號一幅。以上弘法大師の筆と云、其内名號には大僧都空海と落款あり。
舊家自畫像一幅。
七所明神社。村の鎮守とす。紀伊国高野山四社明神を祀り天照大神・春日・八幡三座を合祀す。故に七所明神と号す。末社に天神・稲荷あり。
辨天社。
阿彌陀堂。行基の作坐像長三尺許六阿弥陀の第三番なり、六阿彌陀の由来は豊嶋村西福寺の條に詳なり。
観音堂。西國三十三所札所寫なり。
鐘樓。安永九年鑄造の鐘を掛。
寺中勝蔵院。不動を本尊とす。。(新編武蔵風土記稿より)
北区文化財案内による無量寺の縁起
佛寶山西光院無量寺と号し、本尊は不動明王像です。真言宗豊山派に属し、江戸六阿弥陀三番目として知られていました。創建年代等については不詳です。
新編武蔵風土記稿によれば、この寺院は慶安元年(1648)寺領8石5斗余の朱印が付され、古くは田端村与楽寺の末寺でしたが、5代将軍綱吉の命によって大塚護持院(現護国時)末となり、また、かつては長福寺と称していましたが、9代将軍家重の幼名長福丸と同じであるためこれを避けて無量寺と改めたということです。
更に、同書は、「本尊不動外ニ正観音ノ立像ヲ置長3尺5寸許恵心ノ作ニテ雷除ノ本尊トイヘリ中興眞恵享保3年閏正月23日化ス今ノ堂ハ昔村内ニ建置シ御殿取払トナリシヲ賜リテ建シモノナリト云」と記しています。
「昔村内ニ建置シ御殿」とは舟山茶亭のことと考えられます。「新編武蔵風土記稿」には、西ヶ原村の舟山というところにこの殿舎が建てられてより、その智は御殿山と呼ばれるようになったことや、正保国図(正保は1644-1648)にすでに見られることからそれ以前の建立であると考えられること、また、これが取り壊された年代は不詳であることが記され、更に林羅山の「舟山茶亭記」および「犬追物御覧記」を引用してこの殿舎は三代将軍家光がこの地で鷹狩を行う際の休憩所として設けられたものであることや、正保4年(1647)この地で犬追物が行われたことを記しています。
御殿山は、現在の農業技術研究所跡地から西方の一帯にあたります。(北区文化財案内より)
無量寺の周辺図