装束稲荷神社|王子稲荷へお参りする狐が装束を着替える榎
装束稲荷神社の概要
装束稲荷神社は、関東八ヶ国の稲荷のお使いが、王子稲荷神社へお参りする前、当地にあった榎の下で装束を着替えた場所と言い伝えられています。安藤広重の錦絵の題材ともなった、この狐の行列は、現在大晦日の行事ともなっているほか、名所江戸百景にも選定されています。
社号 | 装束稲荷神社 |
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祭神 | 宇迦之御魂神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 縁日毎月7日、17日、27日、大晦日王子狐の行列 |
住所 | 北区王子2-30-14 |
備考 | - |
装束稲荷神社の由緒
装束稲荷神社は、関東八ヶ国の稲荷のお使いが、王子稲荷神社へお参りする前、当地にあった榎の下で装束を着替えた場所と言い伝えられています。安藤広重の錦絵の題材ともなった、この狐の行列は、現在大晦日の行事ともなっているほか、名所江戸百景にも選定されています。
新編武蔵風土記稿による装束稲荷神社の由緒
(王子村稲荷社項)装束榎。
社地より東の方田間にあり、もとは二株ありしか一株は十七年前に枯て小樹を植繼り、古木の方は圍み二抱餘、土人の説に毎年十二月晦日の據此榎に狐聚りて衣裳を改むるゆへ斯唱ふと云。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による装束稲荷神社の由緒
今から約千年の昔この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷神社の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。
この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年十二月の晦日の夜関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの村に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷神社にお参りするのが例になっていて当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重がその装束稲荷を浮世絵として残しています。
その後明治中期に榎の大木は枯れ土地発展に伴いその佐置も現在の王子二丁目停留所となり社はその東部に移されました。
昭和20年4月13日の大空襲の際猛烈な勢いで東南より延焼して来た火災をここで完全に食い止めて西北一帯の住民を火難から救った事は有名な事実です。
この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿を造営せんものご地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て現在の社伝を見え至りました。
この装束稲荷は商売繁昌の守護神のみならず信心篤き者は衣装に不自由することなく、又火防の神としても前に述べた通りで信者の尊栄を高めています。
例大祭初午
御縁日、毎月7日、17日、27日
昭和29年12月吉日 装束稲荷神社奉賛会(境内掲示より)
王子の狐火と装束榎
かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。
毎年大晦日の夜、関東各地から集まってきた狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。
江戸の人々は、商売繁昌の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、左の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。
昭和4年(1929)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後にこの榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(1993)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷神社までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。(北区教育委員会掲示より)
装束稲荷神社の周辺図