王子稲荷神社|北区岸町の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

王子稲荷神社|平安時代に創建、稲荷社の関東総社

王子稲荷神社の概要

王子稲荷神社は、北区岸町にある神社で、岸稲荷とも称していました。王子稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、治承4年(1180)以前の平安時代に創建、古くから関東惣社と称していたといい、江戸期には町人の崇敬を集めていたといいます。

王子稲荷神社
王子稲荷神社の概要
社号 王子稲荷神社
祭神 宇氣母智之神、和久産巣日神、宇迦之御魂神
相殿 -
境内社 市杵島神社、本宮稲荷神社、嬉野森稲荷神社、北村稲荷神社、御石稲荷神社、亀山神社
住所 北区岸町1-12-26
備考 稲荷社の関東総社、いなり幼稚園



王子稲荷神社の由緒

王子稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、治承4年(1180)以前の平安時代に創建、古くから関東惣社と称していたといい、江戸期には町人の崇敬を集めていたといいます。

「北区文化財案内」による王子稲荷神社の由緒

祭神は宇氣母智之神、和久産巣日神、宇迦之御魂神です。もと岸稲荷と称し、創建は不詳ですが、治承4年(1180)源頼朝が源義家の腹巻(鎧の一種)、薙刀等を奉納したと伝え、古くから関東惣社と称したということです。社殿は、寛永11年(1634)王子神社とともに幕府の手で造営され、元禄16年(1703)にも幕府によって造営され、現在の社殿は文政5年(1822)建立によるものです。
「江戸名所図会」は、当時のこの界隈の賑わいを「実にこの地の繁花は都下にゆづらず」と伝えています。
この神社には「額面著色鬼女図」があります。これは、天保11年(1840)、江戸の住吉明徳講(東京砂糖元売商組合の祖)が柴田是真に委嘱して描かせ、業界の守護神と崇敬するこの神社に奉納した絵馬で、渡辺綱に腕を切られた羅生門の鬼が、叔母に化けてその館を訪れ、すきをみて切られた腕を持って逃げる姿を図にしたものです。また、拝殿および幣殿の格天井に、谷文晁による竜の絵があります。(北区文化財案内より)

「東京都神社名鑑」による王子稲荷神社の由緒

御鎮座ははっきりしないが、「康平年中(一〇五八-六五)、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む」と伝えられるように、平安朝中期にはすでに相当の社格を有しており、江戸時代には徳川将軍家祈願所の一つに定められた。そのころ隆盛になった稲荷信仰に合わせたように、江戸中期より授与されはじめたと伝えられる「火防守護の凧守」が、その奴を凧御守にした形の面白さもあって評判となり、初午の縁日は「凧市」と呼ばれ今日に続いている。(「東京都神社名鑑」より)

新編武蔵風土記稿による王子稲荷神社の由緒

(王子村)稲荷社
舊くは岸稲荷と號す、こは村名の條にも云る如く荒川の流廣潤なりし時其岸に鎮座の神なれはかく號せりと、祭神食保姫命稚産靈尊倉稲魂命にて本地は正観音薬師吒枳尼天なり、祭禮二月初午及十二月晦日狐火會あり、道春所撰の権現縁起に、末社多かる中に何れの世にかありけん此社の傍に稲荷明神を遷し祝ひければ、毎年臘晦の夜諸方の命婦此社へ参り来る、其ともせる火の山中に連り續けること許多の松明を並るか如く、敷石の螢を放ち飛しむに似たり、其道の山を通ひ河邊を通へる不同を見て、明年お豊凶を知ると聞ゆ云々。是に據は當社は権現の末社の如く聞えたれど左にはあらす、金輪寺中興宥養を王子兩社の別當に補せらると云に據ても知らる、道春偶誤記せしならん、當社へ御成ある時は其日一日開帳す、又十年に一度御成跡にて十五ヶ日の開帳を免さる。
社寶
兜二
面頬二
薙刀二振
以上三品は源義家所持の品にて、治承四年頼朝奉納ありしと云、享保五年八月十一日有徳院殿金輪寺へ御立寄の時上覧ありしより、御代々の台覧に供ふと云、兜面の圖左に載す。
衛府太刀一振。傳来詳ならず、中心に清光と銘す、圖後に載す。
鞘巻大刀一振。寶暦年中松平右京太夫家人宮部孫八寄附、銘に奉納于王子村稲荷大明神寶蔵、宮部孫八藤原義正再拝、東都青龍子敬造とあり、圖次の如し。
宗近刀一振。長二尺三寸七分、宗近の二字を銘したれと漫漶して詳ならず、箱の上に奉納王子稲荷大明神宮、三條小鍛冶宗近雄劔一振、享保二十歳次乙卯年二月中七日、越後國新發田城主溝口出雲守臣下源五左衛門尉藤原姓江口氏榮明と記す。
刀一振。紅葉狩太刀と稱す、長二尺三寸五分不動利劔の樋あり、中心の表に國字にてもみちかり、裏に中嶋石右衛門と銘す、寛政九年窪田助左衛門勝英と云者重病に罹りし時、當社に祈誓して、平癒せる報賽に納むと云、由来書を一軸として副たり、(由来書省略)
刀一振。青江下坂の作と云、無銘なり延享五年池田甚十郎寄附の由鞘に記す。
曲玉九顆。文化年中社後の山腹より掘得たりと云。
馬頭観音銅像一幅。坐身長一寸八分弘法作と云。
吒枳尼天畫像一幅。狩野永眞筆の薄彩色なり。
鳥居二基。
神楽殿
供所。享保十九年丙丁に罹りし後井上河内守承りて再建す。
寶篋塔。明和四年田安殿より寄附あり。
鐘楼。寛永十七年鋳造の鐘をかく。
水屋。
表門。寛政年中造立す。
本宮。今の本社後年造營ありし後、其まま立置るる宮なれば本宮と號せり、神體稲を荷ふ老翁の像なり、本地十一面をも安す、こは本社遷座の後別に安置せるものといふ。
末社
辨財天。弘法大師の作、元宇都布坂の上にありしを、金輪寺三世宥雄の時爰に移せり。
白狐神。四所明神清龍明神合社。
装束榎。社地より東の方田間にあり、もとは二株ありしか一株は十七年前に枯て小樹を植繼り、古木の方は圍み二抱餘、土人の説に毎年十二月晦日の據此榎に狐聚りて衣裳を改むるゆへ斯唱ふと云。(新編武蔵風土記稿より)


王子稲荷神社所蔵の文化財

  • 額面著色鬼女図(国指定重要美術品)
  • 凧市
  • 大晦日の狐の行列

額面著色鬼女図

日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保11年(1840)2月初午に、江戸住吉の砂糖商人の同業組合の明徳講が、商圏の拡大を願って奉納した絵馬です。
源頼光の家臣である渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、鬼女の片腕を切り取ってしまう。画題は六日後に伯母に化けて綱の屋敷を訪れた鬼女が、腕を取り返すや否や、伯母から変して目を怒らせ、口を開き疾風のごとく空中に飛び去る様子を描いてます。
麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の名を世に知らしめる契機になったと伝えられます。
王子稲荷神社は、江戸時代には関八州の稲荷の惣社とも称され、江戸の人々の崇敬を集めましたので、このほかにも谷文晁筆の板絵着色の竜図や数多くの文化財が保存されています。(北区教育委員会掲示より)

大晦日の狐の行列

姉妹社の装束稲荷神社より、狐のお面や装束を身につけた人々が行列して王子稲荷神社へ正月の参拝をする狐の行列が行われます。

王子稲荷神社の周辺図