志茂熊野神社|北区志茂の神社

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志茂熊野神社|西蓮寺住職淳慶阿闍梨が勧請、旧下村鎮守

志茂熊野神社の概要

志茂熊野神社は、北区志茂にある神社です。志茂熊野神社は、西蓮寺住職淳慶阿闍梨が紀州熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)8月に下村(現在の志茂)の鎮守としたといいます。当社で続けられている白酒祭りは、かつて神事オビシャ(歩射・御備射)後に催されていた饗宴を受継いだもので、北区指定文化財となっています。また拝殿右側にある社殿は境内社四柱を祀ってあり、志茂熊野神社の旧本殿を使用しています。

志茂熊野神社
志茂熊野神社の概要
社号 熊野神社
祭神 伊邪那岐神、伊邪那美神、事解之男神
相殿 -
末社 阿夫利神社、浅間神社、速玉神社、水神社、飛鳥神社、梛野原稲荷神社
住所 北区志茂4-19-1
祭日 白酒祭り2月7日
備考 旧下村鎮守



志茂熊野神社の由緒

志茂熊野神社は、西蓮寺住職淳慶阿闍梨が紀州熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)8月に下村(現在の志茂)の鎮守としたといいます。

境内掲示による志茂熊野神社の由緒

当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺の鐘銘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勤請熊野三社権現為郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年(1312年)8月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。
毎年2月7日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として、昭和43年に改築竣工したものです。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による志茂熊野神社の由緒

(下村)熊野社
村の鎮守なり、西蓮寺持。(新編武蔵風土記稿より)

「東京都神社名鑑」による志茂熊野神社の由緒

創立の年代は不詳であるが、付近にある西蓮寺の鐘銘には、「人皇九十四代華園院御宇正和壬子(一三一二)八月先師淳慶阿闇梨紀州奉勧請、熊野三社権現為当郷鎮守」と記されている。(「東京都神社名鑑」より)

北区神社めぐりによる志茂熊野神社の由緒

元和元年(1312)、西蓮寺住職淳慶阿闍梨が紀州熊野三社権現を勧請し、下村(現在は志茂)の鎮守とした。
2月7日に行われる「白酒祭り」は当社の特殊祭事で、参拝者に甘酒、短冊餅が配られる。(北区神社めぐりより)


志茂熊野神社所蔵の文化財

  • 熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)(北区指定無形民俗文化財)

熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)

熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(1312)8月、下村の西蓮寺住僧であった淳慶が紀州の熊野三社権現の分霊を招き入れて創建したと伝えられています。以来、同社は今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和4年(1804)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政5年(1822)の年紀がみられる阿夫利社や嘉永2年(1849)3月建立の富士講村上派の供養塔などがあります。
毎年2月7日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月7日の年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に饗宴として催されていたものです。祭では墨で丸く描いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜きます。かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、籤に当たった者が持ち帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が持ち回りで、荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。
関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるオビシャ行事ですが、都内で伝承されている事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗慣習を理解する上で大変貴重な文化財です。(北区教育委員会掲示より)


志茂熊野神社の周辺図