西蓮寺|北区志茂にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

歸命山西蓮寺|豊島八十八ヶ所

西蓮寺の概要

真言宗智山派寺院の西蓮寺は、歸命山と号します。西蓮寺は、法印淳慶(弘安10年1287年寂)が開基と伝えられ、中興第二世は長慶(文明2年1470年寂)だといいいいます。江戸期には満願寺、観音寺、地蔵院の3ヶ寺を末寺に擁していました。豊島八十八ヶ所霊場38番です。

西蓮寺
西蓮寺の概要
山号 歸命山
院号 -
寺号 西蓮寺
住所 北区志茂4-30-4
宗派 真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来坐像
葬儀・墓地 西蓮寺密厳堂
備考 豊島八十八ヶ所霊場38番



西蓮寺の縁起

西蓮寺は、法印淳慶(弘安10年1287年寂)が開基と伝えられ、中興第二世は長慶(文明2年1470年寂)だといいいいます。江戸期には満願寺、観音寺、地蔵院の3ヶ寺を末寺に擁していました。

新編武蔵風土記稿による西蓮寺の縁起

(下村)
西蓮寺
新義真言宗、足立郡川口宿錫杖寺末歸命山と號す、本尊阿彌陀。
満願寺
西蓮寺門徒下ニヶ寺同し、東光山と号す、薬師を本尊とす。
観音寺
普照山と号す、本尊正観音。
地蔵院
摩尼山と号す、地蔵を本尊とす。(新編武蔵風土記稿より)

北区文化財案内による西蓮寺の縁起

新義真言宗川口錫杖寺末寺 武州豊島郡岩淵之内下村・・・1.岩淵之内下村之鎮守熊野権現に而御座候・・・別当西蓮寺本尊太子之御作之阿弥陀尊に毘沙門雲慶之作・・・(岩淵町郷土誌)
これは貞享元年に西蓮寺および下村の名主、年寄、組頭の連名で寺社奉行宛に提出した朱印下附願状の一部です。貞享元年は西暦1684年、五代将軍綱吉が在職していた時にあたります。
西蓮寺は真言宗智山派、本尊は聖徳太子作と伝える阿弥陀如来像、ほかに運慶作と伝える毘沙門天像(寺宝)、熊野神社の神体であった三体仏、付近にあって廃寺となった末寺三ヶ寺の本尊が安置されています。
廃寺となった末寺は、地蔵院、満願寺、観音寺で、本尊はそれぞれ、地蔵菩薩、薬師如来、観音菩薩、いずれも下村内にありました(岩淵町郷土誌)。
この寺の創建年代は不詳ですが、中興第二世長慶の墓碑に、文明2年9月28日とありますので(岩淵町郷土誌)、それ以前の創建と推定されます。文明2年は、西暦1470年、戦国時代のはじめ頃にあたり、京都では応仁の大乱が続いていました。
境内には十余基の板碑があり、その最古のものは、弘安9年の銘をもったものです。弘安9年は西暦1286年、鎌倉時代、二度目の蒙古来襲(弘安の役)の5年後にあたります。板碑というのは供養塔の一種です。弘安9年の板碑は、前述の満願寺跡にあったものが(岩淵町郷土誌)後、この寺に移されたものです。
この寺には、文久2年(1862年)寺子屋が開かれました。この寺子屋は、明治8年現在、男子生徒42名、女子生徒18名で、明治35年明和小学校に合併しました。明和小学校は、同37年、岩淵尋常高等小学校(現在の岩淵小学校の前身)の下分教場となりました。(北区文化財案内より)


西蓮寺所蔵の文化財

  • 木造阿弥陀如来坐像(北区指定文化財)
  • 西蓮寺板碑群

木造阿弥陀如来坐像

西蓮寺は、弘安10年(1287)に没した法印淳慶が開基とされる中世期創建の古刹で、阿弥陀如来坐像を本尊として安置しています。阿弥陀如来とは、西方極楽浄土にあって、往生を願う人々を浄土へと迎え入れる仏です。
西蓮寺の木造阿弥陀如来坐像は、高さ53.5cm、光背・台座を含めると総高約1.3mです。材質は檜材で、本格的な寄木造の工法がとられています。像全体は漆箔仕上げで、頭部は群青彩に塗られ、頭部にある肉髻珠や額にある白毫および玉眼は水晶製のものが嵌め込まれています。像は、右足を上にした結跏趺坐の座り方で、領地は衆生を浄土へ迎え入れるための来迎印を結んでいます。
均整のとれた体躯や浅く控えめな衣文には、平安時代後期の「定朝様」と呼ばれる仏像彫刻の作風がみられますが、引きしまった顔立ちと、胸や腹の厚みのある肉取りからは、鎌倉時代の初期に製作されたものといえます。
本像は、江戸時代と大正時代に修復がなされていましたが、平成8年(1996)に保存のための解体修復が行われ、造立当時の姿をよみがえらせています。(北区教育委員会掲示より)

西蓮寺板碑群

板碑とは、石で造られた供養塔の一種で、鎌倉時代から戦国時代に祖先の追善供養や来世意の安穏を願って建立されたものです。
西蓮寺には合計十一基の板碑があり、二基が本堂内に保管され一基が墓地内、残りの八基が本堂の前に並んで建てられています。十一基の板碑の内、造立年代のわかるものは五基あり、鎌倉時代二基、室町時代三基です。最も大きな弘安9年(1286)正月晦日阿弥陀一尊種字板碑は、二つに割れてはいますが鎌倉時代の特徴を備えた区内でも二番目に古いものです。もとは旧末寺の満願寺にあったもので、明治8年(1875)11月、西蓮寺に合寺されたときに移されたものと考えられます。この他の板碑も、昔から西蓮寺にあったものと、比較的最近、付近から移されたものとがあるようです。
また、墓地の中にある文明庚子(1480)9月28日銘の板碑は、主尊に大日如来の真言と大日経の偈を刻んだもので、当時の住職であった長慶が自分と自分の周囲の人々の来世安穏を願って生前に建てたものです。
これらは皆、阿弥陀如来や密教にかかわる信仰を表現しており、当時の人々の信仰のあり方の一端を示しています。(北区教育委員会掲示より)


西蓮寺の周辺図