長福寺|北区赤羽台にある浄土宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

天然山長福寺|浅草より昭和3年移転

長福寺の概要

浄土宗寺院の長福寺は、天然山慈眼院と号します。浄土宗寺院の長福寺は、湛桑大徳が明応元年(1492)に真宗高田派寺院として創建、寛永4年(1627)に玄昌和尚が宗旨を浄土宗と幕府に答えてしまったことから、浄土宗寺院に改め、自身も頓蓮社相誉玄昌和尚と改めたといいます。明治維新後、慈眼院から長福寺と通称を改称、関東大震災による区画整理に伴い、浅草元三拾三間堂矢先(台東区松が谷2-16)から当地へ昭和3年移転しています。

長福寺
長福寺の概要
山号 天然山
院号 慈眼院
寺号 長福寺
住所 北区赤羽台3-26-2
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長福寺の縁起

浄土宗寺院の長福寺は、湛桑大徳が明応元年(1492)に真宗高田派寺院として創建、寛永4年(1627)に玄昌和尚が宗旨を浄土宗と幕府に答えてしまったことから、浄土宗寺院に改め、自身も頓蓮社相誉玄昌和尚と改めたといいます。明治維新後、慈眼院から長福寺と通称を改称、関東大震災による区画整理に伴い、浅草元三拾三間堂矢先(台東区松が谷2-16)から当地へ昭和3年移転しています。

「北区史」による長福寺の縁起

長福寺
赤羽五丁目にあり、浄土宗芝増上寺末、阿弥陀如来を本尊としている。寛永十年天然和尚の創立する所。昭和三年六月三日浅草松葉町七二(現台東区)より移転して来た。境内二百坪墓地二百坪。(「北区史」より)

「御府内寺社備考」による長福寺の縁起

増上寺末 浅草元三拾三間堂矢先
天然山長福寺慈眼院(境内古跡拝領地千三百八十坪)
明応元壬子年起立仕。其後明暦三酉年焼失。其節寺院御用地ニ被召上、替地拝領、従神田当所江引移り申候。尤起立三拾六年目寛永四卯年、住持玄昌と申僧、此人御成先ニ而上意御尋ニ会、風与浄土宗与御答申上候ニ付、其侭増上寺江罷越末寺支配ニ相成、改宗仕候由承り伝。改宗之年,文政八酉年迄百九十九年ニ相成。住持玄昌改名、相誉与改。浄土宗第一代頓蓮社相誉玄昌和尚、寛永四丁卯年十月廿二日寂。
開基。長福寺は人王百四代後土御門院明応元壬子年起立。高田門徒宗ニ而湛桑大徳、同四卯年三月廿七日寂。
本堂
本尊阿弥陀如来木座像(丈壱尺八寸定朝仏師作)
観世音菩薩木座像二体
大勢至菩薩座像
太子堂(間口九尺奥行壱丈五寸)聖徳太子(太子四十二才之真作之由)
但作事之儀は浅草組石工方建立。
門前ニ聖徳太子四拾二才御真作真影と彫スル石標アリ。
以上乙酉書上
上官太子像四十二歳自作。むかしハ神田のうちに在。明暦回禄に此像も失ぬ。住侶徳誉上人深くかなしふ所に、夢中に告て日、しのはすの池中島二木の松にありと。上人いそき彼所に行むかひて袈裟にまとひて帰ると也(再校江戸砂子)(「御府内寺社備考」より)


長福寺の周辺図