獅子吼山善徳寺|関東大震災後当地へ移転
善徳寺の概要
浄土宗寺院の善徳寺は、獅子吼山専稱院と号します。善徳寺は、十蓮社楽誉聡林上人が開山となり、享徳2年(1453)江戸城西坪根沢に起立、その後平河町、大船町、馬喰町への移転を経て、明暦3年(1657)浅草新寺町(松が谷1-13)へ移転したといいます。関東大震災後の大正14年9月22日、当地へ移転しています。
山号 | 獅子吼山 |
---|---|
院号 | 専稱院 |
寺号 | 善徳寺 |
住所 | 北区赤羽西6-15-21 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
善徳寺の縁起
善徳寺は、十蓮社楽誉聡林上人が開山となり、享徳2年(1453)江戸城西坪根沢に起立、その後平河町、大船町、馬喰町への移転を経て、明暦3年(1657)浅草新寺町(松が谷1-13)へ移転したといいます。関東大震災後の大正14年9月22日、当地へ移転しています。
「北区史」による善徳寺の縁起
善徳寺
赤羽五丁目にあり獅子吼山専称院と云う。芝増上寺の末。本尊は阿弥陀如来、開山は楽誉上人(享徳二年三月寂)境内六百二十三坪、墓地四百五十坪、震災後の昭和二年十月九日浅草松葉町八二(現台東区)から移転して来た。尚境内には浄土三部経塔がある。(「北区史」より)
御府内寺社備考による善徳寺の縁起
増上寺末 浅草新寺町 獅子吼山専稱院善徳寺 境内古跡拝領地1931坪6合6勺。
当時儀は享徳2年江戸城西坪根沢ニ於て起立有之。
御入国翌年平川口へ移り、又3年を過大船町へ移り、慶長13年馬喰町追廻へ移り、明暦3年7月朔日浅草へ引移り申候。
開山十蓮社楽誉上人、在住40年、明応3年7月16日、行年88歳にて遷化。
本堂、本尊阿弥陀如来丈2尺5寸坐像。両祖師共坐像丈2尺。
鎮守熊野社、神体幣束。(中略)
地中。春翁院、坪数百二十二坪半。
初代俊蓮社翁誉自然和尚、慶長3年9月17日寂。
仏像2間半ニ2間。前拝殿2間四方。
本尊阿弥陀如来立像、2菩薩。以上甲乙書上(御府内寺社備考より)
善徳寺所蔵の文化財
- 馬込家墓
馬込家墓
善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。
御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が5街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にあたる名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。
馬込家は、遠江国敷地郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)5月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年(1927)4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
善徳寺の周辺図