光明山円勝寺|茶道伊佐家の墓所
円勝寺の概要
浄土宗寺院の円勝寺は、光明山照徳院と号します。円勝寺は、僧信阿聖法(弘安9年1286年寂)が開山、戦国時代末期には曲輪内龍ノ口付近(千代田区)にあったといいます。当寺は、茶道伊佐家の墓所となっていました。
山号 | 光明山 |
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院号 | 照徳院 |
寺号 | 円勝寺 |
住所 | 北区中里3-1-1 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
円勝寺の縁起
円勝寺は、僧信阿聖法(弘安9年1286年寂)が開山、戦国時代末期には曲輪内龍ノ口付近(千代田区)にあったといいます。当寺は、茶道伊佐家の墓所となっていました。
新編武蔵風土記稿による円勝寺の縁起
(中里村)圓勝寺
浄土宗芝増上寺末光明山照徳院ト号ス。
本尊弥陀ハ立像長ニ尺許慈覚大師ノ作ト云。開山僧信阿聖法弘安九年二月十五日寂。御入国ノ頃ハ御曲輪内龍ノ口辺ニアリシト云。
勢至堂。佛師春日ノ作レル立身ノ勢至ヲ前立トシ故アッテ三尊弥陀ヲ丙佛ニ安ス。
鐘楼、正徳二年新鋳鐘ヲカク。
御腰掛松、古木ハ枯テ植纏シモノナリ相傳フ慶長ノ頃此辺御遊猟ノ時当寺ヘ成ラセラレ此松ニ御腰ヲ掛サセラレシ故此名アリ。又此時寺領五石ノ御朱印後年回録ニカカリ烏有トナリ地所ハ今ニ領セリ。(新編武蔵風土記稿より)
「北区史」による円勝寺の縁起
円勝寺(中里)
中里の旧中里橋の西北にある。光明山昭徳院と云う。浄土宗、芝増上寺末。石段が十二段あつて知られていた。正徳二年の鐫鐘があり、老銀杏があつた。本尊阿弥陀如来。開山は信阿聖法と云う。弘安九年二月寂。家康入国頃は瀧の口(千代田区)にあつたと云うが、いつの頃より当地に移転して来たか明かでない。本堂の傍に五石松があつたが家康腰掛の松とも云われ、慶長頃家康が遊彫の際当寺に来て腰かけたなどと伝えられ、その為家康公腰掛の松として知られ、この時五石の朱印を賜はつたので五石松と称せられた。今は枯れてない。(「北区史」より)
円勝寺所蔵の文化財
- 伊佐家の墓
伊佐家の墓
円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化5年(1808)11月銘の初代と二代の和歌及び・俳句が刻まれています。
出る日も入る日も遠き霊鷲山 またゝくひまに入相のかね 初代 半寸庵知當
後世のたひおもむきたまふ秋の夜の わかれそむかし今のおもひて 二世半寸庵知義
極楽や冬こもりする 阿弥陀堂 二世半寸庵吟洌
伊佐家は江戸時代の茶人の家柄で、代々幸琢を名乗り、数寄屋頭を勤めました。初代(1684~1754)は半々庵と号し、怡渓宗悦に石州流茶道を学んで石州流伊佐派の開祖となりました。二代 (1706~95)は半提庵、三代(~1808)は半寸庵と号しました。
数寄屋頭とは茶道頭とも称した江戸幕府の職制で、若年寄の支配下にありました。職務は数寄屋坊主を指揮して、御三家や大名などの茶事を取り扱うことです。伊佐家は数寄屋頭として幕府の茶道を支配していたので、武家茶道界では大きな勢力を持っていました。特に三代の門下からは、茶人としても著名な松江藩主の松平不昧 (治郷・1751~1818)などが輩出しました。
円勝寺の周辺図