田端不動尊|瀧不動
田端不動尊の概要
寺院の田端不動尊は、北区田端にある不動明王石像です。田端不動尊の創祀年代等は不詳ながら、『再板増補江戸總鹿子名所大館』に「瀧不動」と記載され、不動坂下(JR線路・田端駅南口付近)に祀られていたといいます。鉄道線路敷設・田端駅開業に伴い、江戸坂下(谷田川南岸の地)へ移され、明治44年の谷田川改修・田端操車場の大改修(明治45年唐大正6年)に伴い当地へ遷座しています。現在は本田端自治会が管理しているそうです。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | - |
住所 | 北区田端3-14-1 |
宗派 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 自治会管理 |
田端不動尊の縁起
田端不動尊の創祀年代等は不詳ながら、『再板増補江戸總鹿子名所大館』に「瀧不動」と記載され、不動坂下(JR線路・田端駅南口付近)に祀られていたといいます。鉄道線路敷設・田端駅開業に伴い、江戸坂下(谷田川南岸の地)へ移され、明治44年の谷田川改修・田端操車場の大改修(明治45年唐大正6年)に伴い当地へ遷座しています。現在は本田端自治会が管理しているそうです。
境内石碑による田端不動尊の縁起
当田端不動尊は第二次世界大戦に戦火を受け境内の破壊著しいまゝ廿余年間放置されておりまいたが、今回参詣者皆さまの御賛同と御協力により、玉垣裏山景他の改修工事を施行しその完成を記念するものです。
昭和四十四年五月二十八日(境内石碑より)
「北区史民俗編」による田端不動尊の縁起
田端不動尊
田端3-14-1・本田端自治会が管理。当自治会は、日枝神社の祭祀も司っている。
谷田川通りの北側に設けられた人口の岩山に、石造不動三尊像(中央・不動明王像、向かって右・制多迦童子倚像、左・矜羯羅童子坐像)を安置している。境内に入ってすぐの左右に一基ずつ、板石型の碑が建っている。右側のものには
(碑文省略)
とある。
不動像はもとは台地の北側の低地にあったが、田端駅拡張によって谷田川南岸の地に移転し、さらに谷田川改修のため、現在地に遷されたことがわかる。
この碑が示す旧地の峡下七四八番地は、現在の田端ASUKAタワー(田端文士村記念館所在)西側にある、江戸坂の旧坂下にあたる(現在の江戸坂はL字型に田端駅前に至るが、もとは北に台地を下っていた)。しかし、田端にはかつて滝があって、滝の上に仙元社が、滝の近くには稲荷があり、この滝に祀られていたのが田端不動尊だったという一言い伝えがある。
「1.概観」で触れた「武州豊嶋郡田端村絵図面」(「概況」図2)から推測すると、上に仙元社があり台地下に稲荷のある場所とは、現在高台通りから田端駅南口への石段となってわずかに昔の面影を留めている、「不動坂」の付近と考えられる。東灌森稲荷の項で掲げた『遊歴雑記』三編巻之下三拾五「田畑不動坂下東灌森の宮」には、不動坂について「与楽寺門前を北へ通り越て耕地の往還へ下る坂をいえり、此坂の下口右側に垢離場ありて飛泉流れ落、石像の不動尊あるが故に、斯ハ坂の名に呼り」と記されている。また『再板増補江戸總鹿子名所大館』巻之四下「江府霊仏類聚〔不動〕」にも、「〇瀧不動 日暮里道灌山より三町余北の方、田端六阿弥陀(引用者注・与楽寺のこと)の東二町二町バかりに小き丘あり、御用屋敷と云、此所に少の滝あり、下に石仏の明王あり、諸の病難を祈るに必ず応験あり」と書かれている。
以上からすると、峡下七四八番(江戸坂下) に安置される前に、この不動像は不動坂下にあったものと思われる。不動坂下には、明治十六年に鉄道線路が敷設され、同二十九年四月一日に田端駅が開業している(当初の田端駅は、現在の南口付近にあった)。したがってこの明治十六年または二十九年のいずれかに、不動像が江戸坂下に遷されたと考えられる。
明治四十四年、そこから谷田川沿いに再度遷されたわけであるが、四十五年から大正六年にかけて、田端操車場は東洋一といわれるようになる大工事が行われるので、この移転はそれに伴ったものであろう。
こうして、不動像は字谷田百八十九番地に遷ったのであったが、谷田川の水路拡張のため、現在地に遷された。その後、昭和四十四年に改修工事が行われた旨が、境内入って左側の碑に次のように記されている。(石碑文面上掲)(「北区史民俗編」より)
田端不動尊の周辺図