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清光寺|北区豊島にある真言宗豊山派寺院

清光寺の概要

真言宗豊山派寺院の清光寺は、医王山と号します。清光寺は、豊島清光(12世紀)が開基となり創建、鎌倉期は大寺でしたが、太田道灌との戦いに敗れた豊島泰経とともに衰退、戦国時代末期の豊島明重により再興したといいます。当寺に安置されている豊島清光像は江戸時代の作で、北区指定文化財です。荒川辺八十八ヶ所霊場18番19番(19番はもと観音寺)、豊島八十八ヶ所霊場79番です。

清光寺
清光寺の概要
山号 医王山
院号 -
寺号 清光寺
住所 北区豊島7-31-7
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



清光寺の縁起

清光寺は、豊島清光(12世紀)が開基となり創建、鎌倉期は大寺でしたが、太田道灌との戦いに敗れた豊島泰経とともに衰退、戦国時代末期の豊島明重により再興したといいます。当寺に安置されている豊島清光像は江戸時代の作で、北区指定文化財です。

北区教育委員会掲示による清光寺の縁起

清光寺は医王山と号し、新義真言宗に属する寺院です。
「新編武蔵風土記稿」は、この寺は豊島清光の開基で、寺号もその名によること、小田原衆所領役帳(永禄2年1559年)に島津彦四郎知行14貫文豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王は行基の作で豊島の七仏の一つであったと推定されること、境内に正安3年(1301)、文治2年(1186)、文明元年(1469)、永福5年(不明・私年号)の四基の古碑があることを伝えています。
また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和4年1618)によれば、山号は常康山、保元2年(1157)豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽藍が建立されたこと、寛正年中(1460-1465)応仁年中(1467-1468)山賊悪徒により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明9年(1477)豊島泰経と太田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正15年(1546)府河城主豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄6年(1563)上杉等の残党が府河城を攻めた祭豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。
この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保2年(1742)の作で、願主は祐真、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐真は当時清光寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったろうということです。豊島清光は、その子葛西清重とともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
またこの地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本紀」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。なお、この寺は、豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。(北区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による清光寺の縁起

(豊島村)清光寺
同宗同末(新義真言宗、足立郡沼田村恵明寺末)醫王山と號す當寺は豊嶋権頭清光が開基なり、因て其實名を寺號とせり、(小田原役帳)に、島津孫四郎拾四貫文豊嶋之内清光寺分とあれは、其頃は大やうよき寺なりし事推て知へし、本尊不動は行基の作にて此邊七佛と稱する其一なり、七佛の由来は専稱院の條に詳なり、境内に古碑四基あり、正安三、文治二、文明元、永福五年等の年號を彫れり。
釈迦堂。釈迦は行基の作にて是も七佛の内なりと云。
辨天社稲荷社(新編武蔵風土記稿より)


清光寺所蔵の文化財

  • 木造豊島清光坐像(北区指定文化財)

清光寺の周辺図


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