新清山寿福寺|目黒区上目黒にある天台宗寺院
寿福寺の概要
天台宗寺院の寿福寺は、新清山観明院と号します。寿福寺の創建については諸説あるものの、上目黒宿山の清水市之丞・下馬引澤村の新堀新左衛門が開基大檀那となり、元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建したと伝えられます。
山号 | 新清山 |
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院号 | 観明院 |
寺号 | 寿福寺 |
住所 | 目黒区上目黒5-16-6 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
寿福寺の縁起
寿福寺の創建については諸説あるものの、上目黒宿山の清水市之丞・下馬引澤村の新堀新左衛門が開基大檀那となり、元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建したと伝えられます。
目黒区教育委員会掲示による寿福寺の縁起
「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。(目黒区教育委員会掲示より)
「目黒區大觀」による寿福寺の縁起
壽福寺
現在の上目黒六ノ一四九〇番地にある。天台宗龍泉寺(目黒不動)の末寺で、今より三百二十餘年前、元和元年中に、大阿闍梨鳳算の開基になる古寺である。其後約百年を經た寛永年中に至り、法印順海が中興の祖となりしものであると傳へて居る。即ち法印順海が第一世となり、當時上目黒宿山の清水市之丞、隣村下馬引澤村の新堀新左衛門とが大外護となつたので、山號を新清山と稱へる様になり、過去帳にも兩名が地所を寄附したことが記されてあつて、今もその子孫は尚ほ連綿として殘つて居て、いづれも檀家となつて居る。
新編武蔵風土記稿を見ると、『開基は下馬引澤の人民勝五郎と云ひしものゝ由、今も尚ほ子孫吉兵衛と稱して現に其地に住居すれども、當時創立の年代及開山和尚の名さへも傳へず、中興の開山を法印孝順と云ふ、享保十二年十月二十三日示寂せり。』云々と書いてある。更に過去帳に依つて調べると、孝順は中興第二世となつて居る。即ち當寺の中興を順海と云ひ孝順と云ふ二説がある譯であるが、先住良勉師は風土記の説を誤謬であると云つて居る點から見ても、風土記にある説は、或は調査粗漏の點があつたのではないか。又た或は第二世の代に於て龍泉寺末となつた爲め、それ等から誤られたのではあるまいかとも考へられる。
其後天明八年第五世知皎和尚の時に本堂を再建したが、不幸にも明治八年に至り、二月五日に火災があつて、同寺は建物全部を焼失して了つたのえ、明治十三年十二月下目黒行人坂下の明王院の本堂を移して再建、同十四年三月に落成したのが現在の本堂である。此の明王院は明暦の大火即ち振袖火事を起したる八百屋お七の菩提を弔はむと、吉三の建立したものであると。
大正二年第十九世良勉師に依つて仰拝・客殿・庫裡の改増築が成り、現在の姿となつた。本堂は六間に六間半・庫裡六間に三間、境内は九百二十八坪、本尊は阿彌陀如来である。(「目黒區大觀」より)
新編武蔵風土記稿による寿福寺の縁起
(上目黒村)壽福寺
除地3段7畝12歩、小名宿山組にあり。天台宗下目黒龍泉寺の末なり。新清山と号す。開基は下馬引澤村の人民勝五郎といひしもののよし。今も其子孫吉兵衛と称して、現に其地に住居すれども、当寺草創の年代及び開山和尚の名さへも傳へず。中興の開山を法印高順と云。享保12年10月23日示寂せり。客殿8間に6間半。本尊阿弥陀如来を安置せり。(新編武蔵風土記稿より)
寿福寺の周辺図