高峯山長泉院|目黒区中目黒にある浄土宗寺院
長泉院の概要
浄土宗寺院の長泉院は、高峯山大玄寺と号します。長泉院は、増上寺第四十四世大玄大和尚の教えを信じた北川大道が奔走、大玄大和尚の法弟奥州無能寺の不能律師にはかり、多摩郡下成木村長泉院という寺を当所へ移した上、大玄大和尚の弟子千如上人を開基、大玄大和尚を開山として宝暦11年(1761)創建したといいます。
山号 | 高峯山 |
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院号 | 長泉院 |
寺号 | 大玄寺 |
住所 | 目黒区中目黒4-12-19 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 長泉院附属現代彫刻美術館 |
長泉院の縁起
長泉院は、増上寺第四十四世大玄大和尚の教えを信じた北川大道が奔走、大玄大和尚の法弟奥州無能寺の不能律師にはかり、多摩郡下成木村長泉院という寺を当所へ移した上、大玄大和尚の弟子千如上人を開基、大玄大和尚を開山として宝暦11年(1761)創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による長泉院の縁起
長泉院
年貢地7383坪下目黒村の方へよりてあり。古俗に新寺と唱ふ。浄土律宗芝増上寺末、高峯山大玄寺と号す。宝暦の頃江戸の人北川大道と云もの、増上寺第四十四世大玄和尚を信じ、律院起立の大願を起し、奥州無能寺の不能律師にはかり、多摩郡下成木村長泉院と云洞家の寺を当所へ移し、大玄の弟子千如上人を請して遂に浄土律院を起す。時に宝暦11年なり。これよりさき大玄僧正は宝暦6年8月4日入寂ありしかど、推て僧正を開山とし、千如を開基とす。
門。南に向う。両柱の間9尺、門前左右に石標二基を立つ。右に円光東漸大師霊場と刻し、左に葡辛酒肉禁制の由を彫る。
本堂。6間に4間、東に向ふ。長泉律院の四字を刻す。本尊阿弥陀如来は慈覚大師の作。木佛坐像長3尺。
鐘楼。門の内地蔵堂の先石階の上にあり。3間半四方。鐘の径2尺5寸、高4尺。銘文の略にいふ、増上寺第四十五世前大僧正成誉玄大和尚夙以荷法自在、高弟千如上人乃移当国古禅刹、山号高峯、院称長泉、於斯境政為浄宗律院矣。北川氏祐著居士、当時経始客殿方丈厩院等、時宝暦13癸未之年也云々。銘末に明和5年とあり。
客殿。本堂の左地形一段低き所にあり。
放生池。客殿の前、本堂左の方石階の下にあり。六七十歩の池なり。小橋架す。
千如上人石塔。寺にては上人を開基と称す。当山創起幹事寛政8年5月12日と鋳る。
北川居士碑。碑面に不退院慶誉徳央祐善近住とあり、碑陰の文あり。その略に北川居士保久仙者、諱大道、武州江府の産也。本姓源氏、称北川、父諱禅光、乃鼻組宣勝の裔也。居士明和6年10月17日終年79.
地蔵堂。門を入て左にあり、南に向ふ。3間四方、本地延命地蔵菩薩、垂跡守一無能上人としるせし額を掛く。増上寺大僧正念海と落款あり。本尊地蔵地蔵尊木佛立像にて、長1尺2・3寸なり。
観音堂。本堂の左の方石階の右山上にあり、北に向ふ。大さ2間半に3間。もと経蔵にて千手観音の像を安置するゆへ観音堂と称す。秩父西国坂東の六字を表せり。
弁天稲荷八幡合社。同所にあり、西に向ふ。2間に9尺、前に鳥居をたつ。
天神社。本堂の右山上にあり。6尺四方、祠前10歩許にして鳥居を立。側に三峯の小祠あり。(新編武蔵風土記稿より)
目黒区教育委員会掲示による長泉院の縁起
長泉院
長泉院は浄土宗の律院として、宝暦11(1761)に増上寺45世の大玄和尚を開山として建てられました。
名前の由来は、「山間より清泉湧出して、境内を続り流るるゆえに、長泉の号あり」と「江戸名所図会」にあります。
現在境内には、江戸時代後期の儒者松崎慊堂の墓(都指定文化財)などがあります。(目黒区教育委員会掲示より)
長泉院所蔵の文化財
- 松崎慊堂の墓(都指定文化財)
- 普寂徳門自筆仏典注釈書(目黒区指定文化財)
普寂徳門自筆仏典注釈書(目黒区指定文化財)
普寂徳門は宝永4(1707)年、伊勢国桑名に生まれました。長じて京に出て学び、また諸国を遍歴しながら広く仏教を学びます。その後、近江や京都などで多くの僧に仏典を講じ、宝暦13(1763)年に長泉院に招かれました。徳門は仏教学への造詣が深く、宗派にとらわれない広い視野に立った論説を展開しました。長泉院には徳門の記した多くの注釈書のうち、5種28冊が残されています。それらは華厳宗および天台宗の典籍の注釈書で、徳門の自筆本として大変貴重なものです。
徳門は天明元(1781)年に没し、当寺の墓地に葬られました。(目黒区教育委員会掲示より)
長泉院の周辺図