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御田八幡神社|港区三田の神社

御田八幡神社の概要

御田八幡神社は、港区三田にある八幡神社です。御田八幡神社は、和銅2年(709)8月に創建した「武蔵国荏原郡御田郷 薭田八幡」に比定されるとも、寛仁年間(1017-1020)に創建したともいいます。(薭田八幡神社は、大田区蒲田薭田神社も比定されています)古くは窪三田にあったものの、正保年間(1645-1648)当地へ移転、明治2年に薭田八幡、明治7年に三田八幡、明治30年御田八幡と改称したといいます。太平洋戦争終戦まで郷社に列格していました。

御田八幡神社
御田八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別尊
相殿 天児屋根命 、武内宿禰命
境内社 五光稲荷神社、御嶽神社
祭日 例祭日8月13日
住所 港区三田3-7-16
備考 -



御田八幡神社の由緒

御田八幡神社は、和銅2年(709)8月に創建した「武蔵国荏原郡御田郷 薭田八幡」に比定されるとも、寛仁年間(1017-1020)に創建したともいいます。(薭田八幡神社は、大田区蒲田薭田神社も比定されています)古くは窪三田にあったものの、正保年間(1645-1648)当地へ移転、明治2年に薭田八幡、明治7年に三田八幡、明治30年御田八幡と改称したといいます。太平洋戦争終戦まで郷社に列格していました。

江戸名所図会による御田八幡神社の由緒

三田八幡宮
芝田町七丁目にあり三田の惣鎮守にして祭る所、山城男山八幡宮と同くして後一条帝寛仁年間草創といひ傳ふ。旧地は窪三田にあり(土人云当社ハ延喜式の神名記及ひ武蔵風土記等の書に載つ所の薭田神社是なり今も其旧地に一社あり窪三田八幡宮と称す)正保年間今の地へ移し奉るといへり。此地後は山林ありて前ハ東海を臨む。風光秀美なり、別当は天台宗にして眺海山無量院と号す祭礼は隔年八月十五日で修行を放生会なり。
延喜式神名帳云 武蔵国荏原郡御田郷 薭田八幡
武蔵風土記残篇云 荏原郡御田郷薭田八幡
圭田五十八束三字田
所祭應神天皇也宿祢荒木田襲津彦等也和銅二年己酉八月十五日始行神体有神戸巫戸等(江戸名所図会より)

「芝區誌」による御田八幡神社の由緒

御田八幡神社 田町七丁目
祭神 譽田別尊(應神天皇)。
社記及び「武蔵風土記」には延喜式内古社であると傳へてゐる。元明天皇和銅二年牟佐志國牧岡に草創し、寛弘二年御田郷即ち後の麻布領窪三田(現在の三田小山町社有地)に遷り、慶長十二年現鎮座地を相して社殿を造營し、寛永五年に正遷宮を行った。寛文八年火災の為めに烏有に歸し、寛文十二年細川越中守現社殿を再建した。
古くは稗田神社、御田八幡、箕田八幡宮などと稱したが、慶應四年六月稗田神社となり、明治五年三田八幡神社と改稱し、郷社に列した。其後、三田の冠稱を御田に改めた。東海道に面した衡門を潜り、一條の甃石を踏み、十八級の石階を登れば、高丘の中腹に鎮座する拝殿に達する。什寶には羅生門禁制一面、縁起(延享五年五月)一冊、上高輪検地水帳(元禄十年)一冊等がある。上記羅生門の禁制は、武蔵國三田の住人渡邊綱が鬼を退治して其腕を切取り、自邸に持歸ると、其跡を追って来た鬼が腕を奪ひ還して飛去ったので、羅生門で追ひついて大格闘を演じた甲斐もなく、遂に逃げられてしまつた時の記念に持歸つたものだと言ふ事になつてゐる。これに就いては本編第二章第七節街の史蹟、綱の舊蹟の項を参照して戴きたい。
氏子區域
田町自一丁目至九丁目九ヶ町、伊皿子町、通新町、横新町、高輪西臺町、三田四國町一部、芝浦三丁目、新芝町、月見町一、二、三丁目、高濵町。(「芝區誌」より)

東京都神社名鑑による御田八幡神社の由緒

和銅二年(七〇九)、牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後、寛弘八年(一〇一一)武蔵国御田郷久保三田の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。江戸開幕のみぎり、僧快尊、元和五年(一六一九)現社地を卜して造営を開始し、寛永五年(一六二八〕八月遷座した。別当は八幡山宝蔵寺と称し天台宗に属する。神仏分離により別当僧復飾し神主職に就く(石田弾正)。明治二年九月稗田神社と称号する。同七年一月三田八幡神社と改称し、同三十年四月三田冠称を御田の旧名に復し、御田八幡神社と称号するに至った。昭和二十年五月、東京大空襲により炎上。(東京都神社名鑑より)


御田八幡神社の周辺図


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参考資料
  • 江戸名所図会
  • 「芝區誌」
  • 東京都神社名鑑