三河稲荷神社|神田三河町を立ち退きに遭い当地へ遷座
三河稲荷神社の概要
三河稲荷神社は、港区南青山にある稲荷神社です。三河稲荷神社は、三河から神田(三河町)移住してきた五十人組が三河より奉遷して天正19年に創建、神田三河町の地が御用地になり貞享年間当地へ遷座したといいます。
社号 | 三河稲荷神社 |
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祭神 | 宇賀魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 港区南青山2-18-18 |
備考 | - |
三河稲荷神社の由緒
三河稲荷神社は、三河から神田(三河町)移住してきた五十人組が三河より奉遷して天正19年に創建、神田三河町の地が御用地になり貞享年間当地へ遷座したといいます。
「赤坂區史」による三河稲荷神社の由緒
三河稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
創建年代は不詳なるも、當社に傳へてゐる沿革を略記した文書には、
天正十九年辛卯仲春二十二日、神田組屋敷に於て勸請。爾後九十餘年を經て(貞享の頃なるべし)嚴命に因り、青山庄組屋敷に替らる。元文二丁巳年二月唯一神道齋藤佐内藤原重安を以て永く社職たらしむ。延享二乙丑年秋當社神位之節、神主重安上京し、吉田三位殿館に於て神道傳授。八月下旬、祠官斎藤山城守歸府す。同九月三日神位の箱本社に奉遷宮云々 維新明和三丙戌仲春吉辰
渡来孫市源次昌 謹撰書
としるされてゐる。また萬延元申年八月の同社再建助精帳「青山五十人町定普請同心大縄屋敷鎮守稲荷社云々」とあつて、地坪五十八坪五合、拝殿九尺四面の圖を載せてゐるのが、即ち現在の形である。
新撰東京名所圖會の著者は、「按するに、三河と稱するは、往昔天正の頃五十人組の者三河より移住するの際遷し来れる神社なるに因り、後社號としたるものなるべし。」と云つてゐる。(「赤坂區史」より)
境内掲示による三河稲荷神社の由緒
三河稲荷神社と稱するは往昔天正の初め五十人組の者参州三河より移住するの際遷し来れる神社なるに因り社號としたるものなるべし、天正十九年辛卯仲春二十二日(西暦1591年)神田組屋敷に於て勧請、爾後九十有余年を経て(貞享の頃なるべし)厳命に因り、青山庄、組屋敷に替らる、元文二丁己年二月、唯一神道斎藤左内藤原重安を以て永く社職たらしむ。延亨二乙年秋當者神位之節、神主重安上京す、吉田三位殿館に於て神道傳授、八月下向、祠官斎藤山城守帰府す、同九月三日神位の箱、本社ニ正遷宮云々。
維時明和三丙戊年仲春吉辰 渡来孫市源次昌謹撰書
又萬延元庚申年八月の同社再建、勧請帳には青山五十人町定普請同心、大縄屋敷、鎮守稲荷社火伏の神云々とありて拝殿九尺四面、地坪五十八坪五合の圖あり、即ち現在の形なり(東京府東京市赤坂区青山北町三丁目五十番地)今は同町内の所有と為り、小宮弥兵衛、藤倉幸助、矢島清兵衛の三人信徒の総代と定め置けり。右文は明治三十六癸卯年七月十日発行の新撰東京名所図会第丗八編より転記。後代昭和二十乙酉年五月第二次世界大戦の戦災に因り拝殿焼失せり、昭和二十四巳丑年二月二十二日、山口昇太郎老夫婦、進藤四郎、井上育雄、三上次十郎、他青山南北三丁目、有志諸氏に依り社殿再建遷座を行ふ。昭和三十三戊戌年八月二十九日宗教法人三河稲荷神社として設立登記する。(境内掲示より)
東京都神社名鑑による三河稲荷神社の由緒
神社本庁の所管ではないため掲載なし
三河稲荷神社の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」