広尾稲荷神社|徳川秀忠が鷹狩りの折に勧請
広尾稲荷神社の概要
広尾稲荷神社は、港区南麻布にある稲荷神社です。広尾稲荷神社は、慶長年間(1596-1615)徳川秀忠が鷹狩りの折に当地に稲荷社を勧請、麻布御花畠富士見御殿の鎮守だったといいます。太平洋戦争後、富士見稲荷を合祀したといいます。当社の拝殿天井墨龍図(高橋由一筆)は港区有形文化財に指定されています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 9月15日 |
住所 | 港区南麻布4-5-61 |
備考 | - |
広尾稲荷神社の由緒
広尾稲荷神社は、慶長年間(1596-1615)徳川秀忠が鷹狩りの折に当地に稲荷社を勧請、麻布御花畠富士見御殿の鎮守だったといいます。太平洋戦争後、富士見稲荷を合祀したといいます。
東京都神社名鑑による広尾稲荷神社の由緒
慶長年間(一五九六-一六一五)徳川秀忠公鷹狩りのみぎり、この地に稲荷を勧請したと伝えられる。古老によれば明治中期まで宝前に葵の紋所のついた大提灯が掲げられてあったという。樹齢五百年といわれる御神木の銀杏は青山大火のさい類焼し、樹幹内部は焼かれたが、外皮のみで今なお葉緑を吹き出して、歴史の証人として立っている。経緯は不詳だが、戦後富士見稲荷の御神体が本殿に合祀されている。富士見稲荷については、『文政寺社書上』に不思議な石降りの話がある。なお、現在ドイツ連邦大使公邸敷地内に旧跡があり詞が残っている。(東京都神社名鑑より)
「麻布區史」による広尾稲荷神社の由緒
廣尾稲荷神社(無格社)廣尾町三九
祭神倉稲魂神、大祭九月十六日。舊麻布御花畠富士見御殿の鎮守であつた。
御殿は元三枝攝津守屋敷であり、稲荷は其頃からあつたものと云ふ。即ち元禄十一年三月二十八日御殿落成と共に勧請された。
一に富士見稲荷と呼び、又宮村千蔵寺の持であるところから千蔵寺稲荷とも云つた。
明治四十二年二月二十二日現社號の稱呼を許可された。社殿は神明造、氏子は廣尾町・新廣尾町及び渋谷区元廣尾に亘り、總數一千三百戸を持つてゐる。(「麻布區史」より)
東京名所図会による広尾稲荷神社の由緒
廣尾神社
廣尾神社は。麻布廣尾町三十八番地に在り。もと富士見稲荷と稱す。武江圖説に餘程の山上にて。此所より富士眺望不斜とあれど。今は山上にあらずして平地なり。門前に石の鳥居ありて。正一位稲荷宮(七十九番翁蓮仙書)と題せし扁額を掲げ。左柱に明和元歳九月。右柱に弘化四年九月と刻しあり。社殿は素木造りにて。藍川藤原考経拝畫と署せり。神社の傍に銀杏の神木聳えたり。
此廣尾神社は。もと麻布御殿の鎮守として祠られしものなりといふ。(東京名所図会より)
広尾稲荷神社所蔵の文化財
- 広尾稲荷拝殿天井墨龍図高橋由一筆(港区指定有形文化財)
広尾稲荷拝殿天井墨龍図高橋由一筆
拝殿天井のほぼ全体にわたる大きな画面に、水墨の線と濃淡のぼかしを巧みに活かし、頭から尾の先までを円状にくねらせながらその姿を現わす一頭の龍が生き生きと描かれています。図中には、「藍川藤原孝経拝画」の著名と「藍川」の印章(朱文方印)が見られます。
「藍川」の号は、西洋からもたらされた油絵の技法をいち早く取り入れ、近代日本洋画最初の画家として歴史的な評価をうける高橋由一(一八二八-九四)が、絵画学習の基礎として狩野派の様式を学び、その画法によって水墨画を描いていた時期に使用していたものです。由一が狩野藍川孝経の落款を残す現存作品は極めて稀です。
広尾稲荷神社は、弘化二年(一八四五)一月二十四日、青山から麻布一帯を焼いた「青山火事」によって社殿を焼失しましたが、同四年に再建されました。拝殿の墨龍図は、このときに描かれたものと考えられます。製作年代がほぼ特定できる作品としても貴重なものです。(港区教育委員会掲示より)
広尾稲荷神社の周辺図
参考資料
- 「麻布區史」
- 東京都神社名鑑
- 東京名所図会