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笑柳山報土寺|港区赤坂にある真宗大谷派寺院

報土寺の概要

真宗大谷派寺院の報土寺は、笑柳山と号します。報土寺は、朝倉左衛門義景の子孫である永受法師が開基となり赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に慶長19年(1614)創建、安永9年(1780)当地に移転したといいます。江戸期の力士雷電爲右衛門夫妻の墓所です。

報土寺
報土寺の概要
山号 笑柳山
院号 -
寺号 報土寺
住所 港区赤坂7-6-20
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



報土寺の縁起

報土寺は、朝倉左衛門義景の子孫である永受法師が開基となり赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に慶長19年(1614)創建、安永9年(1780)当地に移転したといいます。江戸期の力士雷電爲右衛門夫妻の墓所です。

「赤坂區史」による報土寺の縁起

眞宗大谷派報土寺(山號笑柳山、東本願寺末)臺町四十九番地
開山は釋永受、朝倉左衛門義景の末葉にして俗称朝倉某、山城の人(萬治元年九月六日寂))、慶長十九年赤坂大澤町(現在の新町三丁目邊)の百姓地に當寺を起立し、その後元禄八年二月、御用地に召上げられたので、赤坂新寺町の西尾隠岐守上ヶ地中の賜地に引移た。更にそれより八十六年を經て安永九年二種徳寺境内の三分坂拝領地(即ち現在の寺地)百八坪と當寺々地とを相對替して移轉し、その上種徳寺の地面二百三十坪を借地して、此處に墓地を置いたのである。
墓域には(東京府指定史蹟)井部香山の墓(井部香山は儒者、初め葛西因是に學び、その養子となりしも、後本姓に復した。閣老水野越前守に聘せられ、その封地濱松に於て藩の諸生を教導せることあり、學徳共に高く、弟子三千人に及んだ。嘉永六年四月八日歿年六十。)や、有名な力士雷電爲右衛門、法號雷聲院釋關高爲輪信士(文政八乙酉二月十一日歿。年五十九)と同妻八重(法號聲竟院釋妙關爲徳信女、文政十丁亥正月二十日歿、年六十一)の墓があり、雷電の前には一箇の丸形の力石が置かれ、その表面に「三拾貫、良蔵遊持是」と刻してある。又門を入つてすぐ右のところに丸木利陽(寫眞技術家、帝室技藝員、大正十二年一月廿一日歿、年七十一)の墓がある。
當寺の洪鐘は文化年中に力士雷電爲右衛門が寄附したるに、異形の鐘を掲げたる段不届なりとて幕府より取壊しを命ぜられたまま廢絶してゐたが、明治四十一年現住職が再興したのである。(「赤坂區史」より)

東京名所図会による報土寺の縁起

報土寺は。同町(赤坂臺町)四十九番地に在り。真宗にして笑柳山と號す。開基は永受法師とす。門内に新鐘を頓し。堂畔には山田卯之助の墓碑を建てり。彼の力士にて高名なる雷電の墓は。當寺の墓所南畔に在り。(東京名所図会より)

港区教育委員会掲示による報土寺の縁起

報土寺は、慶長十九年(一六一四)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永九年(一七八〇)に三分坂下の現在地に移転してきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦を横に並べて入れた土塀を特に「練塀」といいます。(東京都港区教育委員会掲示より)

報土寺所蔵の文化財

  • 報土寺築地塀(練塀)
  • 雷電為右衛門の墓

報土寺築地塀(練塀)

報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿って造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。(東京都港区教育委員会掲示より)

雷電為右衛門の墓

明和四年(一七六七)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、創建、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
天明四年(一七八四)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(一七九〇)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。
雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(一八一四)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわされた。
文政八年(一八二五)江戸で歿した。(東京都港区教育委員会掲示より)


報土寺の周辺図