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豊川稲荷東京別院|港区元赤坂にある曹洞宗寺院

豊川稲荷東京別院の概要

曹洞宗寺院の豊川稲荷東京別院は、豊川稲荷妙巌寺の東京別院です。豊川稲荷東京別院は、三河国西大平藩主で、名奉行としても名高い大岡越前守忠相が藩地で崇敬していた文政11年(1828)に三河國豊川村曹洞宗妙嚴寺の豊川ダキニ真天を邸内鎮守として創始、明治20年に邸内の豊川ダキニ真天を奉遷、豊川稲荷妙嚴寺の東京別院となったといいます。

豊川稲荷東京別院
豊川稲荷東京別院の概要
山号 -
院号 -
寺号 豊川稲荷東京別院
本尊 豊川ダキニ真天像
住所 港区元赤坂1-4-7
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



豊川稲荷東京別院の縁起

豊川稲荷東京別院は、三河国西大平藩主で、名奉行としても名高い大岡越前守忠相が藩地で崇敬していた文政11年(1828)に三河國豊川村曹洞宗妙嚴寺の豊川ダキニ真天を邸内鎮守として創始、明治20年に邸内の豊川ダキニ真天を奉遷、豊川稲荷妙嚴寺の東京別院となったといいます。

境内掲示による豊川稲荷東京別院の縁起

豊川稲荷は稲穂を荷い白狐に跨り給うお姿の豊川ダキニ真天にましまし 今から凡そ七百余年の昔順徳天皇第三子寒巌義尹禅師によってはじめて感得見され、それより代々伝えられて嘉吉元年(1441年)旧十一月二十二日豊川の霊場豊川閣妙巌寺に奉祀されました。尓来福徳の善神として広く御信者の皆様に信仰せられて今日におよんでおります。
当山は愛知県豊川閣の東京別院で、江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公が生涯の守護神として日夜信仰せられた由緒ある豊川ダキニ真天の御尊像をおまつりする霊場であるます。(境内掲示より)

「赤坂區史」による豊川稲荷東京別院の縁起

曹洞宗妙嚴寺参詣所豊川荼[口乇]枳尼天堂 表町二丁目十二番地
豊川荼[口乇]枳尼天堂は、通称を豊川稲荷といひ、文政十一年に三河國豊川村曹洞宗妙嚴寺の[口乇]枳尼天を遷祀したもので、明治二十年までは一ツ木の大岡氏別邸(現在の赤坂小學校内の東部)の地内にあつた。舊幕地代には諸侯は大抵その藩地の神を江戸邸内に分祀するならはしがあつたので、三河西大平藩主たる大岡家も亦その采邑の内にあつた豊川稲荷を江戸の邸内に祀つたのであらう。(赤坂大岡侯御藩鎮守豊川稲荷、参詣始まる-武江年表文政十二己丑年記事。)
東都歳時記には「赤坂御門外大岡侯下屋敷豊川稲荷参り。正、五、九月は大般若轉讀あり。」と見えてゐる。當堂は明治二十年に舊地大岡氏別邸が赤坂小學校の校地となつた際に、現在の地即ち舊の定火消役屋敷趾に移轉したのである。
豊川稲荷は花柳界及び藝道關係の方面に信仰者多く、又名奉行大岡越前守の信仰せしものなれば盗難除に靈験ありと云はれ、祭日には多數の参詣者に賑はつてゐる。即ち祭日は正、五、九月廿二日、開帳は九月十五、十六、十七の三日間である。(「赤坂區史」より)

東京名所図会による豊川稲荷東京別院の縁起

豊川荼枳尼天堂
豊川荼枳尼天堂は。表町二丁目十二番地に在り。街角に當れるを以て最も一目を惹けり。全境の外圍は。總て石塀を以て環らし。門の内外には茶店相列りて。供餅と狐像とを鬻く。門内に盥漱所あり。右に石の玉垣を設く。其の内の正面を本堂とす。銅葺き二重屋根破風造りにして。種々の彫刻を施し。甚だ壮麗を極む。堂前には石燈籠多し。堂に沿て右に折れて進めば。又門あり。正面に一宇を構ふ。是を奥の院と為す。門外の西畔に賣卜者の家あり。女屐の湊ふを見る。當堂の参詣人常に絶ることなく。叙光相照し。裙影相映す。是れ亦東京市中の一霊場なり。
當堂はもと豊川稲荷神社と稱し。同所一ツ木町舊大岡越前守の邸中に在りて。文政十一年五月建る所といふ。明治の後荼枳尼天と改稱して。曹洞宗と為り。全く佛法に歸し。二十年に至りて今の地に移轉せり。
本尊は享保年間江戸町奉行を以て高名なる大岡越前守の信向せしものなれば。最も盗難除に霊験ありとて。之に歸依する者甚だ多し。
稲荷神をば。故らに荼枳尼天と改稱したるは。當時の都合に依りての事ならむ。是れ全く習合説に基きしものなり。其の是非はここに論せず。
大岡侯は。高一萬石にして。其の治所は三河國額田郡西太平とす。江戸より七十六里なり。慶應の武鑑には。菊之間、朝散太夫、大岡越前守忠敬とあり。上屋敷は外櫻田にて。此地に在るは下屋敷なりし。町奉行たりし越前守は。名を忠相といひ。通稱を忠右衛門といへり。大岡忠真の男。實は同姓美濃守忠高の三男なり。同人の事は嘗て麹町區の部町奉行役宅の條に記載したれば参観すべし。(東京名所図会より)


豊川稲荷東京別院の周辺図


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