壽命山長松寺|国指定史跡の荻生徂徠墓
長松寺の概要
浄土宗寺院の長松寺は、壽命山無量院と号します。長松寺は、傳譽(天文13年1544年寂)が龍の口附近に開山、当寺2世義公が慶長2年(1597)に中興したといいます。当寺境内の荻生徂徠墓は、国史跡に指定されています。
山号 | 壽命山 |
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院号 | 無量院 |
寺号 | 長松寺 |
住所 | 港区三田4-7-29 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長松寺の縁起
長松寺は、傳譽(天文13年1544年寂)が龍の口附近に開山、当寺2世義公が慶長2年(1597)に中興したといいます。
「芝區誌」による長松寺の縁起
長松寺 三田豊岡町三十八番地
浄土宗芝増上寺末、壽命山無量院。往古は龍の口邊にあつて稱明院と稱した。開山傳譽は天文十三年十二月入寂した。二世僧義公が慶長二年に中興し、開山の法號を取って今の名に改めた。観音堂に茶壺観音が安置してある。壺入観音とも呼ばれ、肥前瀬脇の海中で漁人の網にかかつたものだと、いひ傳へられる。寺内に荻生徂徠及び荻生氏一家の墓がある。(「芝區誌」より)
長松寺所蔵の文化財
- 荻生徂徠墓(国指定史跡)
荻生徂徠墓
江戸時代中期の儒学者。字は茂卿、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文六年(一六六六)館林藩邸に生まれた。十四歳から十三年間、父方庵に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄三年(一六九〇)江戸に戻り、柳沢吉保に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「蘐園」を開いた。宋学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語徴」「明律国字解」「訓訳示蒙」「蘐園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保七年(一七ニ二)「政談」を幕府に献上した。享保十三年(一七二八)一月十九日六十三歳で死去した。(東京都教育委員会掲示より)
長松寺の周辺図
参考資料
- 「芝區誌」
- 御府内寺社備考