興国山賢崇寺|佐賀藩主鍋島家三代松平肥前守忠直の菩提寺
賢崇寺の概要
曹洞宗寺院の賢崇寺は、興国山と号します。賢崇寺は、佐賀藩主鍋島家三代松平肥前守忠直(法号興國院殿敬賢崇大居士、寛永12年1635年卒)の菩提を弔うため、その父信濃守勝茂が創建、魚泉正豚和尚(承応4年1655年寂)を開山に迎えたといいます。
山号 | 興国山 |
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院号 | - |
寺号 | 賢崇寺 |
住所 | 港区元麻布1-2-12 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
賢崇寺の縁起
賢崇寺は、佐賀藩主鍋島家三代松平肥前守忠直(法号興國院殿敬賢崇大居士、寛永12年1635年卒)の菩提を弔うため、その父信濃守勝茂が創建、魚泉正豚和尚(承応4年1655年寂)を開山に迎えたといいます。
「麻布區史」による賢崇寺の縁起
興國山賢崇寺 一本松町
下野宇都宮成高寺末、本尊釋迦、佐賀藩主鍋島家三代松平肥前守忠直法諡興國院殿敬賢崇大居士(寛永十二年正月二十八日卒)の菩提を弔つて父信濃守勝茂が建立した寺である。開山は魚泉正豚和尚(承應四年三月十五日寂)傳教大師直作と傳へる三面大黒天の奇像があつたが今はない。寶暦五年十月鋳物師西村和泉守藤原政時作の梵鐘がある。墓地には左の名家墳墓がある。
鍋島直正、佐賀藩主、號閑叟、文化十一年十二月七日江戸藩邸に生る。天保元年襲封以来藩政の革新につとめ冶績を揚げ、王政復古の後は盡忠の至誠を披瀝し、維新の鴻業に貢献するところ大であつた。明治四年正月十八日薨、年五十八。贈従一位。佐賀市別格官幣社佐嘉神社の祭神に奉斎されてゐる。
古根松根 國學者、通稱興一、楢園又寧楽園、閑叟公に仕へ、明治四年一月二十一日殉死。年五十九。
中野晴虎 勤王家、鍋島藩士、通稱方蔵、文久二年正月十五日同志と共に坂下門に安藤閣老を襲撃し、同年五月廿五日獄死。年二十八。贈従五位。墓表は明治十九年十二月伯爵大木喬任等が建てた。
宇都宮太郎 佐賀の人、陸軍大将、仙波太郎・林太郎の兩大将と共に陸軍の三太郎と云はる。大正十一年二月十五日歿、年六十二。
久米幹文 文學博士、昭和六年二月二十四日歿、年九十三、宏文院天秀易堂居士と諡す。
久米桂一郎 佐賀の人、幹文の子、洋畫家東京美術學校教授、昭和九年七月二十九日歿年六十九。
他にかの二・二六事件を起した陸軍将校も當寺に埋葬されてゐる。(「麻布區史」より)
賢崇寺所蔵の文化財
- 肥前佐賀藩主鍋島家墓所(東京都港区指定文化財)
肥前佐賀藩主鍋島家墓所
賢崇寺は、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が、寛永十二年(一六三五)疱瘡で死んだ嗣子忠直ぼ菩提を弔うために忠直を開基として創建したお寺で、忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」より、興国山賢崇寺と名づけられ、江戸における鍋島家の菩提寺となった。
鍋島家墓所は、約千百㎡の範囲に画然とした墓域を形成しており、開基忠直、初代勝茂、九代斉直、初代小城藩主元茂(忠直兄)とその夫人達など一族の五輪塔の墓が並んでいる。各はかへは、参拝用の門をもつ石造の格子状の垣を巡らして聖域を形作り、各門の前両側には石燈籠が配されている。門の扉は既に失われているが、江戸時代の有力な大名家の墓の形態をよく遺している。とくに、墓石のすべてが五輪塔に統一されていることは興味深い。
勝茂るの墓の裏には、勝茂の死に際して殉死した重臣たちの板石状の墓三十基が整然と並んでいる。これは、殉死という江戸初期の武士の遺風を知るうえで貴重である。(東京都港区教育委員会掲示より)
賢崇寺の周辺図
参考資料
- 「麻布區史」