青山海蔵寺|井伊候夫人が本所牛島に創建
海蔵寺の概要
黄檗宗寺院の海蔵寺は、青山と号します。海蔵寺は、井伊候夫人(掃雲院殿無染了心大姉)が海蔵庵として寛文11年(1671)本所牛島に創建、隠元禅師の法孫鐡眼道光禅師が開山したといいます。延宝8年(1680)当地へ移転、正徳3年(1714)公許を得て一宇となったといいます。
山号 | 青山 |
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院号 | - |
寺号 | 海蔵寺 |
本尊 | 釈迦牟尼佛像 |
住所 | 港区北青山2-12-29 |
宗派 | 黄檗宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
海蔵寺の縁起
海蔵寺は、井伊候夫人(掃雲院殿無染了心大姉)が海蔵庵として寛文11年(1671)本所牛島に創建、隠元禅師の法孫鐡眼道光禅師が開山したといいます。延宝8年(1680)当地へ移転、正徳3年(1714)公許を得て一宇となったといいます。
「赤坂區史」による海蔵寺の縁起
黄檗宗海蔵寺(山號青山 山城國宇治萬福寺末)青山北町四丁目百三番地
開山は隠元禅師の法孫鐡眼道光禅師である。當寺はもと本所牛島にあつて、承應年中に卓峰といふ禅僧が取建て居住した一小庵であつたが、續府内備考によれば、當時江戸に巡錫中の鐡眼がそれを譲受けて、延寶八年に、青山久保町即ち現在の寺地に引移り居住し、後、天和二年に大翅といふ僧が之を相續した。かくて依然海蔵庵と唱へたが、元禄五年以来、諸庵(圓應庵。大慈庵。萬祥庵。禅海庵。海蔵庵。眞光庵。鐡門庵。)一同より古跡並寺號御免の儀を、寺社奉行へ再三願出でたるに、正徳二年に至つて、嚴有院(四代家綱将軍)の三十三回忌追善のため、八ヶ庵一同へ古跡並寺號を許されたので、從来の海蔵庵の名稱を改めて海蔵寺と唱へ、大翅より密山和尚相續、本堂以下の造營を了し、享保十八年には檀越の願により伊賀之者の給地を添地に賜はつた。
鐡眼は後に各地に轉錫し、攝州難波の薬師寺を重修して瑞龍寺(俗に鐡眼寺)と改稱し、大蔵經版行の宿願を遂げて、三月二十二日示寂した。
當寺の開基は、彦根侯井伊直興の室法號春光院殿華岑擔月大姉(天和元年正月八日卒)
、及び同直興の息女法號掃雲院殿無染了心大姉(元禄六年五月十八日卒)で、共に鐡眼に歸依し、その蔵經版行の事業を補助した人である。(これらの縁により當寺は昔は大蔵經東國取次所の一であつた。)
境内に芭蕉の句碑(身を捨に登る虫あり高燈籠、碑裏に閑花三世貞佐建之とあり)がある。又桑々畔貞佐の墓(墓背に享保歳次甲寅秋九月、門人清水超並冨岡郁佐建之の刻あり)及び四世繪馬屋額輔の墓がある。(額輔本名は田沼小右衛門、青山北町四丁目七番地に質屋業を營み、初め狂歌を淺草庵岡野伊平に學び、明治二十年四世繪馬屋を襲名した。明治三十四年六月二十三日歿、年四十三。)
武江戸年表並に川邊怪石の墳墓圖説に據れば、當寺に首塚と、富士入定塚と呼ばれた二つの碑があつたものだが、二碑共に今はない。首塚は、表面に「無縁六百頭供養塚」、横に「寛政十一己未八月廿四日建之」とあり、これは當寺の檀家である和泉屋権右衛門の家に居つた一比丘尼が、刑死者の首級六百を得て、罪障消滅のために之を建て、追福を營んだもの。また富士入定塚は、高さ六尺の、山形をなした石で、正面に「食行身禄」、左右に「享保拾八年己六月十七日」と刻されてゐる。この身禄といふのは、伊勢一志郡川上清水村から出た伊藤伊兵衛にして、江戸に来り薬商を營んで巨萬の富を成したが、後に不二行者となり、前記の日を以て富士山七合五勺目烏帽子岩に至り、六十三歳にて禅定入滅した者であると云ふ。尚、當寺の毘沙門天像は天竺毘首羯摩天の刻作と傳へられてゐる。(「赤坂區史」より)
江戸名所図会による海蔵寺の縁起
青山海蔵寺
同町一町より を隔てて乾の横町右側にあり黄檗の禅宗にして始ハ海蔵庵と号し寛文十一年井伊候夫人掃雲院殿の営建なり其頃鐵眼禅師をして此草庵に居らしむ竟に正徳三年に至り公許を蒙り一宇の蘭若とす。菊岡沾涼云開山室州和尚と云々。當寺より唐板の一切経を出す。(江戸名所図会より)
海蔵寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」
- 江戸名所図会