寶嚴山龍谷寺|高力左近太夫隆長の息女が開基
寶嚴山龍谷寺の概要
曹洞宗寺院の龍谷寺は、寶嚴山と号します。龍谷寺は、高力左近太夫隆長の息女法號寶嚴院殿聲覺貞音大姉(寛文13年1673年卒)が開基となり、龍源寺第九世延外善祝和尚(天和2年1682年寂)が四谷に開山、寛文4年(1664)鮫河橋へ移転したといいます。明治20年御用地となり当地へ移転したといいます。
山号 | 寶嚴山 |
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院号 | - |
寺号 | 龍谷寺 |
住所 | 港区南青山2-8-27 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
寶嚴山龍谷寺の縁起
龍谷寺は、高力左近太夫隆長の息女法號寶嚴院殿聲覺貞音大姉(寛文13年1673年卒)が開基となり、龍源寺第九世延外善祝和尚(天和2年1682年寂)が四谷に開山、寛文4年(1664)鮫河橋へ移転したといいます。明治20年御用地となり当地へ移転したといいます。
「赤坂區史」による寶嚴山龍谷寺の縁起
曹洞宗龍谷寺(山號寶嚴山上野國勢多郡膳村龍源寺末)青山南町二丁目七十五番地
起立年代不詳。開山は龍源寺第九世延外善祝和尚(天和二年三月二十一日寂)、開基は高力左近太夫隆長の息女法號寶嚴院殿聲覺貞音大姉(寛文十三年七月十三日卒)にして、禅林院殿前攝州太守傑岑道英大居士(高力忠房)其他の古き位牌を安置してゐる。
或は、當寺は寛永四丁卯年より本伊賀町に罷在り寛文四甲辰年鮫河橋年貢地へ引移とも云ふ。(鮫河橋名主太郎蔵記録)
明治二十年までは四谷鮫河橋六十八番地にあつたが、其處は假皇居御用地となつたゝめに、現在の寺地に移轉したのである。(「赤坂區史」より)
「四谷區史」による寶嚴山龍谷寺の縁起
鮫河橋にあつて寶嚴山龍谷寺と云つた。境内は七百二拾七坪、伊賀組の年貢地である。起立不詳とあるが、開山延外善祝和尚の寂年月は天和二年三月二十一日であるから、大凡推察するに難くない。開基は高力左近太夫隆長の女寶嚴院であつて、寛文十三年七月十三日に死去した。本尊は薬師如来、鎮守の稲荷社があつた。上野國勢多郡膳村龍源寺の末で曹洞宗である。(「四谷區史」より)
寶嚴山龍谷寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」
- 「四谷區史」