信康山龍泉寺|徳川信康自刃地の庵室を江戸へ移転
信康山龍泉寺の概要
浄土宗寺院の龍泉寺は、信康山常法院と号します。龍泉寺の草創については不詳ながら、徳川家康の長男信康が自刃した後に埋葬した地(三河国の瀧の上の小松林の中)にあった庵室を江戸に移して一寺となしたのではないかと伝えられ、肇蓮社源譽一法随流(寛永13年1636年寂)が開山となり、寛永元年(1624)に創建、瀧泉寺と称していたといいます。明治20年火災により類焼、赤坂一ツ木かた当地へ移転したといいます。
山号 | 信康山 |
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院号 | 常法院 |
寺号 | 龍泉寺 |
住所 | 港区南青山2-8-25 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
信康山龍泉寺の縁起
龍泉寺の草創については不詳ながら、徳川家康の長男信康が自刃した後に埋葬した地(三河国の瀧の上の小松林の中)にあった庵室を江戸に移して一寺となしたのではないかと伝えられ、肇蓮社源譽一法随流(寛永13年1636年寂)が開山となり、寛永元年(1624)に創建、瀧泉寺と称していたといいます。明治20年火災により類焼、赤坂一ツ木かた当地へ移転したといいます。
「赤坂區史」による信康山龍泉寺の縁起
浄土宗龍泉寺(山號及別號信康山常法院、京都智恩院末)青山南町二丁目七十五番地
起立は寛永元年(或は元和年中ともいふ-江戸圖説)、開山は肇蓮社源譽一法随流(寛永十三年十月二十日寂)である。寺傳によれば、開基は常法院隆岩長越大居士、俗號岡崎三郎信康公、天正七年二月十五日御逝去。尾州前大納言義直公御取立。中興開山は教山和尚で寂年不詳、これは尾州の御家人後藤三郎右衛門舎弟となってゐる。
もとは三河國に在つたと傳へられ、山號の信康山といふのは、徳川家康の長子にして織田信長の忌諱に觸れて遂に自殺を餘義なくされた岡崎三郎信康の名乗を取つたものと云はれる。
續府内備考には「元は参州に在りし寺などゝ申傳ふるのみと云へり。山號は三郎君御名乗の字、寺は瀧泉寺と有は故ある事にや。編年集成に云、三郎君自滅し給ひて是を火葬し奉り遺骨は瀧の上の小松林の中庵室の傍に埋むとあれば、恐らくは此庵室を寺となし御名乗の字を以て山號とし、瀧の上の所名を以て寺號瀧泉寺とは名付ける物か。又是等を御乳母其比在生して、悲みの餘りに願て寺とはなしける物か。いづれ故有る事とぞみえたりける。」と。唯、同寺に安置された信康公の法號をしたためた靈牌の裏面に天正七己卯二月十五日家康公息松平三郎信康とあるので、同書には「二月と有はいか成故にや、是等は筆者の過れるにや、天正七年の二月は未生害以前也。天正八年なれば其理も有るべし。或は天正八年の二月御靈牌を安置せし故に、二月と書けるやいぶかし。是等者御乳母などの建置しにや。」と云つてゐる。
右に據れば、當寺は昔は瀧泉寺と稱へたらしい。もと赤坂一ツ木町七番地にあつたが、明治二十年の火災に類焼したために、現在の青山南町二丁目に移轉し、舊跡は市廛となつた。
當寺には傳教大師の作と傳ふる子安観音と、同作薬師佛を安置してゐる。世に一ツ木観音、一ツ木薬師といふのはこれである。(「赤坂區史」より)
信康山龍泉寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」