清涼山松光寺|松平日向守の母松光院の菩提寺
松光寺の概要
浄土宗寺院の松光寺は、清涼山長昌院と号します。松光寺は、頂本寺と称して永享6年(1563)西久保に創建、明暦2年当地へ移転、寛文2年(1662)松平日向守の母松光院の菩提寺となったことから松光寺と改めたといいます。
山号 | 清涼山 |
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院号 | 長昌院 |
寺号 | 松光寺 |
住所 | 港区高輪1-27-18 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
松光寺の縁起
松光寺は、頂本寺と称して永享6年(1563)西久保に創建、明暦2年当地へ移転、寛文2年(1662)松平日向守の母松光院の菩提寺となったことから松光寺と改めたといいます。
「芝區誌」による松光寺の縁起
松光寺 二本榎一丁目四十五番地
智恩院末派、清涼山長昌院と號する。慶長十九年西久保に創建し、頂本寺と稱したが、慶安三年四月類焼に遭ひ、明暦二年此地に移つた。寛文二年明石城主松平日向守母松光院の菩提寺となり、松光寺と改めた。寺内に供養塔、地蔵堂、不動堂等がある。(「芝區誌」より)
境内掲示による松光寺の縁起
松光寺は元々頂本寺といわれ、永享六年(西暦一五六三年)有名な桶狭間の戦の翌年、芝西久保巴町(今の虎の門)の地に開基されました。未だ江戸幕府の入部前で当時日比谷あたりは江戸湾でしたから浜辺の小祠堂だっったかもしれません。その後慶安年間四代将軍家綱の時代に現在地高輪に移転してきました。松光寺前の通りは、江戸幕府入部前の旧東海道(鎌倉往還)で由緒のある通りです。
その後上山(かみのやま、蔵王の麓)松平家の江戸の菩提寺となり、四代忠国公正室松光院の墓の建立を契機に今の松光寺に寺名を更めました。その後薩摩藩の帰依も受け、一時は寺侍三十人を抱える程繁栄したと伝えられ、明治初年の我国初の鉄道建設に当っては英国人技師の宿舎になり、我国の鉄道建設史にその名を残しています。然し幕末の大名家の没落、廃仏毀釈などの時勢のため徐々に寺運衰微の止むなきに至ってしまいましたが、近時寺門興隆のため力を尽くして努力をしております。
敷地内には名前の由来となった巨大な(高さ四・八メートル)松光院の墓、貞享院の墓、触れるとたたるとされるタタリ仏、六地蔵などの貴重な歴史的遺産が保存されています。(境内掲示より)
松光寺の周辺図
参考資料
- 「芝區誌」