高松御嶽神社|石造大山不動明王像
高松御嶽神社の概要
高松御嶽神社は、練馬区高松にある御嶽神社です。高松御嶽神社は江戸末期に上練馬村高松の小澤橋山(林蔵)によって創建されたと伝えられます。明治11年(1878)当地に遷りました。境内には、廃寺となった高松寺の石造大山不動明王像が安置されています。
社号 | 高松御嶽神社 |
---|---|
祭神 | 国常立尊、大己貴尊、少彦名尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
例大祭 | 9月15日 |
住所 | 練馬区高松3-19 |
備考 | 石造大山不動明王像 |
高松御嶽神社の由緒
高松御嶽神社は江戸末期に上練馬村高松の小澤橋山(林蔵)によって創建されたと伝えられます。明治11年(1878)当地に遷りました。
練馬区教育委員会掲示による高松御嶽神社の由緒
当社の祭神は、国常立尊・大己貴命・少彦名尊の三神で、木曽御嶽神社の分霊を勧請したものです。
新たな道が開けて木曽御嶽山への登拝が容易になったのは、天明(1781-)の頃からといいます。
その後、江戸を中心に御嶽講をまとめ、信仰を広めたのは一山行者です。その一山行者を講租に祭る一山社が境内にあります。また明治11年当社を創いた小沢林蔵君碑、及び氏を初代王する一山講先達の碑もあります。
むかし、ここから約150m北、富士街道沿いに高松寺という真言宗の寺がありました。明治初年廃寺となり、墓地は愛染院に合併され、本尊の薬師如来はその時当地に移されました。御嶽神社・薬師如来記念碑は神仏分離後のものとして珍しいものです。
鳥居脇の石仁王二体は宝永3年(1706)伊賀忍者の頭領服部半蔵が高松寺へ寄逢したものです。
背面に半歳の銘が見えます。伊賀衆は、幕末まで橋戸村(現在の大泉町)を領地としていました。当地は江戸屋敷(四谷伊賀町)と領地橋戸村との往還にあたっていました。(練馬区教育委員会掲示より)
「練馬の神社」による高松御嶽神社の由緒
社伝によると、江戸末期に上練馬村高松の小澤橋山(林蔵)によって創建されたという。橋山は初め下練馬村の内田真浄から神道の教義を学び、やがて近郷の村民に諮って御嶽山一山講社を結成した。[古来、基礎御嶽山への当廃には厳しい精進潔斎を必要とした。しかし天明・寛政を(1781-1801)頃、覚明と普寛は、軽い潔斎による庶民登拝の道を開いた。さらに天保(1830-44)になると、行者一山が江戸を中心に一山講社を組織し講の拡大に努め、練馬にも一山講が結成されるに至った。]明治11年(1878)橋山は御嶽神社を当地に遷した。二代目先達は実弟心嶽(文次郎)が継ぎ、現在で八代を数えている。「拝み」に唱えられる練馬一山講「御嶽山肝要集」は神道的なものと仏教的なものとが混合している。
境内石造物で古いのは、宝永3年(1706)の仁王像、文久2年(1862)の水盤であるが、ともに明治初年廃寺となった高松寺のものである。(高松寺の本尊薬師如来と阿弥陀如来は拝殿内に安置)。旧来当社にあった石造物では、慶応3年(1867)の不動明王箱型座像と明治14年(1881)の一山霊神三十三回忌碑が古い。社殿は昭和11年(1936)の改築で改築記念碑が建っている。昭和52年(1977)11月の宗教上人記念碑や多くの記念碑のほかに行場の井戸がある。
境内樹木の中に幹回り1mのモッコクがある。(「練馬の神社」より)
高松御嶽神社所蔵の文化財
- 八幡神社の石造大山不動明王像(練馬区指定有形民俗丈化財)
八幡神社の石造大山不動明王像
宝永3年(1706)銘。伊賀衆の服部半蔵が、付近にあった高松寺(廃寺となっている)に寄進したものです。
徳川家康より伊賀衆に橋戸村・白子村の一部(現在の大泉周辺地域)を給地されたことに関する資料としてばかりでなく、区内にある仁王像の中でも勝れた出来栄えの石造物です。(練馬区教育委員会掲示より)
高松御嶽神社の周辺図
参考資料
- 「練馬の神社」(練馬区教育委員会)