田島山九品院|練馬十一ヶ寺の一、蕎麦食地蔵
九品院の概要
浄土宗寺院の九品院は、練馬十一ヶ寺の一です。慶長4年(1599)に本蓮社正誉秀覚和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建したといいます。田島山誓願寺の塔頭西慶院と合併、関東大震災後当地へ移転しました。西慶院で安置されていた蕎麦食地蔵(そば食い地蔵)は、蕎麦の尾張屋へ蕎麦を食べに来ていたという言い伝えを持ち、現在当院で安置してあります。
山号 | 田島山 |
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院号 | 九品院 |
寺号 | - |
住所 | 練馬区練馬4-25-1 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | 檀家の方、入檀する方のみ |
備考 | - |
九品院の縁起
九品院は、慶長4年(1599)に本蓮社正誉秀覚和尚が、田島山誓願寺の塔頭として創建したといいます。田島山誓願寺の塔頭西慶院と合併、関東大震災後当地へ移転しました。
御府内寺社備考による九品院の縁起
九品院、境内263坪8合3勺余
慶長四年己亥年起立之由二侯得共、委細相知不申侯。
開祖本蓮社正誉秀覚和尚、慶長十五年六月九日寂。
本尊阿弥陀如来立像
脇士観音勢至立像
観音立像、往古観音堂境内ニ在之候所焼失後院内江安置仕候。(御府内寺社備考田島山田島山誓願寺項より)
合併した西慶院の縁起
西慶院、境内205坪
当院起立之儀者慶長四巳年与申事二御座候。
開祖円蓮社玄営林碩和尚、慶長11午年7月18日寂。
本尊阿弥陀如来坐像、長1尺5寸、行基菩薩作
脇士観音勢至立像
石仏地蔵尊立像 長五尺。右者長安院檀家松木道喜与中人寄附二御座候。俗ニそば喰ひ地蔵と申伝候。
本多兵部公寄附之碑 碑面に千代も経し心六十の月と花竜城三秀亭主人、碑陰に文化八辛未三月春懐謹書と有之。(御府内寺社備考田島山田島山誓願寺項より)
九品院所蔵の文化財
- 蕎麦食地蔵(そば食い地蔵)
蕎麦食地蔵(そば食い地蔵)の縁起
九品院に安置してある、将軍延命厄難滅除蕎麦喰地蔵尊は、後陽成天皇の代、文禄元年(1592)徳川家康、江戸城に拠り江戸市街の経営を着々と進めるに当り、庶民教化を第一として、行徳兼備の高僧を遍くもとめた。そして相模国小田原田島山誓願寺の開山東誉齢祖上人、徳望高く庶人帰依する者多しと聞いて上人を招請する為に、大久保石見守を使者に差し向けた。大久保石見守はその途中小田原の某所を通過の節、地中から現われた地蔵尊を拝したので、東誉上人に面謁した後この事を告げた。上人も「之れまことに、奇瑞なり」と、其の開眼供養を施し、田島山誓願寺境内に安置せられた。
慶長元年(1596)関ケ原の合戦の4年程前、田島山誓願寺は小田原より江戸神田豊島町、今の須田町あたりに移され、石見守と縁故浅からぬ、塔中西慶院開基善誉俊也和尚が地蔵尊の別当(本官ある人の別に他の職に当るを云う)になった。それから帰依する者がふえ、武家の信仰も深く、よって将軍地蔵とも称せられた。
其の後明暦3年(1657)正月18日振袖火事で知られる江戸の大火で市中の大半は焦土と化し、田島山誓願寺は本寺末寺挙げて浅草田島町に移転した、浅草広小路尾張屋の話はこの時代のことで、天保年間(1830-1843)悪疫流行の時には門前市をなす程の盛況だったと云う。
後の 「おはなし」 も一般に伝わり誰言うとなく、願をかける時或は顧成就の折には、御礼として蕎麦を供養せよ、とこれに依って蕎麦喰地蔵尊の名が起り、江戸六地蔵の随一として著名になった。時代が推移し、明治の末年西慶院は隣寺九品院に合併され、大正12年9月1日の関東大震災にまた炎上した、そして昭和4年、現在の練馬区練馬四丁目に移った。地蔵尊の堂字は、大方有縁の信徒の浄財寄附を以て再建し、講中地蔵講を結んで維持し、永遠に正に安置することとなった。(境内掲示より)
蕎麦食地蔵(そば食い地蔵)のお話し
「あゝ、美味しかった。御馳走さま」
お坊さんは何度も丁寧に礼を言うと、暖簾をくぐって出て行った。いや、いや……
こんなに夜遅くおしのびでお出なさるとは、よほど蕎麦の好きなお方と見えるわい。元々信心深い尾張屋の主人のことゆえ、お坊さんの所望に毎夜快よくもてなしていた。
だが待てよ……、闇の中に去って行くその後姿を見送りながら、主人は不図こんな事を考えていた。もう一月にもなるかな、毎晩きまって四ッの鐘が鳴ると、間もなくお見えになるような気がする。それにしてもあの奥床しい容貌と言い、おだやかな物腰と言い、唯の方ではあるまい。一体何処の方であろうか。一つ明日聞いてみよう。
翌日、主人はお坊さんにおずおずと尋ねてみた。
「不躾ながら、貴方様はどこのお寺でいらっしゃいますか」
お坊さんはその問いを聞くと、はたと困ったような表情を浮かべ、只恥かしそうに顔を紅らめ答えようとはしない。主人の重ねての質問にやっと、
「田島町の寺……」
と小声で言うと、あとそれ以上聞いて呉れるな、と言うような眼差しを残して逃げるように立ち去った。どうも腑に落ちない。さては蕎麦好きの狐か狸が化けているのではないだろうか。よーし、今度きたら正体をつき止めてやろう、と店の者がいきまくのを主人、は押えておいた。
明くる日またお坊さんは、何事も無かったように蕎麦を食べ終えると、礼を述べて帰った。覚悟を決めた主人は、こっそりその跡をつけて行く。知ってか知らずか、坊さんは深閑と静まりかえった夜道をゆっくり、ゆっくり歩いていった。袈裟衣の黒い影は、田島山誓願寺の山門をくぐり、西慶院の境内に入って行く。あー、申し訳ない矢張り本当のお坊さんだったのだ。何という申し訳ない事を、と山門の陰で両手を合わせてお坊さんの後姿を拝んでいた主人はその時ハッと息をのんだ。お坊さんの姿が地蔵堂の中にすうっと消えてしまたのだ。そして、御像にほのかな後光が射かに見えた。主人はへたへたとその場に坐り込み、暫らくは茫然と御堂をみつめた儘であった。何処をどう走ったかもわからない。やっと家に辿りついた主人がうるさく聞く声に耳もかさず「申し訳ない、勿体ない、お許し下さい・・・・・・」と繰り返えすのみ。
その夜、まだ興奮もさめぬまゝにうとうととまどろんでいると、枕元に厳かなお告げが聞えた。「われは西慶院地蔵である。日頃、汝から蕎麦の供養を受けまことに忝い。その報いには、一家の諸難を退散し、特に悪疫から守って遣わそう」それ以来、主人は毎日西慶院の地蔵様に蕎麦を供え、祈願するのを怠らなかった。ある年、江戸に悪疫が流行して、死人が続出し野辺送りの列が絶えなかった。人々の悲しみをよそに、尾張家一家はみな無事息災であった。(境内掲示より)
九品院の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 練馬の寺院(練馬区教育委員会)