南池山円光院|馬頭観世音、豊島八十八ヶ所霊場
円光院の概要
真言宗豊山派寺院の円光院は、南池山円光院貫井寺と号します。円長法師(天正13年1585年寂)が当地に開山したと伝えられます。観音堂に安置されている十一面観世音は馬頭観世音と称され、馬の守り本尊として、馬かけの行事が毎年催され賑わったといいます。豊島八十八ヶ所霊場11番札所です。
山号 | 南池山 |
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院号 | 円光院 |
寺号 | 貫井寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 練馬区貫井5-7-3 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | 円光院会館で、宗旨宗派を問わず葬儀可能 |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場11番札所 |
円光院の縁起
円光院は、円長法師(天正13年1585年寂)が当地に開山したと伝えられます。観音堂に安置されている十一面観世音は馬頭観世音と称され、馬の守り本尊として、馬かけの行事が毎年催され賑わったといいます。
練馬区教育委員会掲示による円光院の縁起
円光院は、南池山貫井寺といい、真言宗豊山派(豊島八十八ヶ所霊場第11番札所)のお寺で本尊は不動明王です。
昔、寺の南に大きな池があったので「南池山」と号し、土地の名が貫井であるので「貫井寺」と称したといいます。
寺の伝えによると天正13年(1585)没した開山・円長法師は密法修行の折、にわかに腰脚痛を患い、あらゆる治療を施したが効果がなく、一念をこめて七日間の断食をして、武川大鱗山の子聖権現を遥拝し平癒を祈願しました。その満願の日の暁、霊夢により宝石を得て患部を撫でさすると、たちまち快癒したので、感きわまってここに堂合を建て貫井寺と称し、その近くに子聖大権現を勧請して霊石と共に奉安しました。
子聖権現は十二年に一度、子の年・子の月・子の日にご開帳され、また観音堂に安置された観世音菩薩は子ノ聖観世音と称し、馬の護り本尊として信仰を集め、毎年春に境内で「馬かけ」の行事が行なわれ賑わいました。
昭和20年5月戦災で本堂などを焼失、昭和38年再建が成り、昭和55年12月、観音堂ならびに境外仏堂(地蔵堂)などが修復再建されました。(練馬区教育委員会掲示より)
「練馬の寺院」による円光院の縁起
新編武蔵風土記稿に「円光院、愛染院末。南池山貫井寺と号ス。本尊不動。開山円長。天正13年6月11日寂ス。」とある。
「南池山貫井寺円光院小史」によれば、昔、寺の南に大きな池があったので、それにちなんで「南池山」と号し、土地がが貫井であるので「貫井寺」と称したという。
円光院は豊島八十八ヶ所霊場第11番の弘法大師霊場であり、土地の人からは「貫井の権現様」と呼ばれ、親しまれてきた。
寺の伝えによれば、円長法師は、密法修行のおり、にわかに腰脚の痛みを患い、あらゆる治療を施したが効果がなく、さらに一念をこめて七日間の断食をして武川大鱗山の聖権現を遥拝し、腰脚患部の平癒を祈願した。その満願の日の明け方、夢の中に紫雲がたなびきたちまち尊像が出現して、「汝が信敬に感応して、いま示すことあり、むかし我が行脚の際、百姓の苦を救わんとしてこの地に来たり、自ら杖をとて田の畔を穿ちし時、掘出せし石魂、いまなと近くにあり、これをもって痛むところをなでさするべし」と告げた。眠りから覚めた円長法師は歓喜し、すぐにたずね求めると、小槌の形をした奇妙な自然石があった。これは夢のお告げの霊石であると、喜び拝んで、草庵に持ち帰って、その石で患部を撫でさすると、三日もたたぬ間に腰脚の痛みが快癒したので、感きわまって、永禄7年(1564)甲子の年に、今の所に堂舎を建てて貫井寺と号し、その近くに祠を造立し。子ノ聖大権現を勧請して霊石と共に奉安した。
それが貫井寺円光院の草創であるといわれる。子ノ聖権現は十二年に一度、子の年・子の月・子の日に開帳される。
観音堂に安置されている十一面観世音菩薩は、子ノ聖観世音の名で親しまれてきた。そしてまた、これを馬の守り本尊である馬頭観世音とと称して、信仰する者が多く、縁日には遠くの村々からも参詣者があり、大いに賑わったと伝えられている。山門前にある文化7年(1810)小春吉日に商人講中によって建てられた「子ノ聖観世音」碑が盛事を物語っている。
また、明治期になると、毎年春の「馬頭の祭」の日に、付近の馬持ち衆が馬の安全祈願におとずれ、境内で「馬かけ」が行なわれた。
昭和20年5月戦災を受け、山門、鐘楼を除き、主な建物はことごとく焼失したが、昭和38年再建された。(「練馬の寺院」より)
円光院所蔵の文化財
- 子ノ聖観世音碑(練馬区登録文化財)
円光院の周辺図
参考資料
- 練馬の寺院(練馬区教育委員会)