三輪厳島神社|源義経が平泉から鎌倉に向かう際に漂流
三輪厳島神社の概要
三輪厳島神社は大田区大森東にある神社です。三輪厳島神社は、冶承四年(1180年)源義経が平泉から鎌倉に向かう途次の船に乗船中強風により漂流、当地の社に護られたことを感謝して一宇となったといいます。当地には三輪神社が鎮座していましたが、明治42年(1909)白山神社を合祀、昭和3年(1928)に現在の社務所の位置にあった厳島神社を合祀して三輪厳島神社としたといいます。
社号 | 厳島神社 |
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祭神 | 大国主命、伊弉冉尊、市杵島姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 銭洗弁財天社 |
祭日 | 例祭日10月8日 |
住所 | 大田区大森東4-35-3 |
備考 | - |
三輪厳島神社の由緒
三輪厳島神社は、冶承四年(1180年)源義経が平泉から鎌倉に向かう途次の船に乗船中強風により漂流、当地の社に護られたことを感謝して一宇となったといいます。当地には三輪神社が鎮座していましたが、明治42年(1909)白山神社を合祀、昭和3年(1928)に現在の社務所の位置にあった厳島神社を合祀して三輪厳島神社としたといいます。
新編武蔵風土記稿による三輪厳島神社の由緒
(東大森村・西大森村・北大森村)弁天社
除地二十一歩、北大森村の内にて第六天社(現堀ノ内三輪神社)の傍にあり。社は九尺に二間。(新編武蔵風土記稿より)
「大田区の神社」による三輪厳島神社の由緒
伝説によれば、文治五年(1189)に源義経が郎党を率いて関東に至り、多摩川を渡った際、たまたまその日が二百十日に当っていて、強風のため舟が押流され大森沖を漂流した。舟から望見される神社の森に海上の平穏を祈念したところ、風がおさまった。義経は舟を大森に着け里人に社の名を尋ねたところ厳島社であったので、その加護を感謝し社殿を修理して舟を付けた浜辺に注連竹に付着した海藻がノリであったという。
明治四十二年(1909)に現在の位置に元々あった三輪神社が近くにあった白山神社を合祀し、昭和三年(1928)に現在の社務所にあった厳島神社を合祀して現在の三輪厳島神社となった。(「大田区の神社」より)
境内掲示による三輪厳島神社の由緒
かしこくも、当社の祭神は素盞嗚尊の御女市杵嶋姫命にまします。謹みて創立の起源を神記口碑に因り案ずるに。安徳帝治承四年(1180年)源義経は武蔵坊弁慶・伊勢三郎・駿河治郎等の郎徒を具し、東海道玉川の渡しを過ぎけるが、頃しも二百十日の厄日にて南西の風吹き荒び、舟は見る見る押し流され大森下に漂えば一同安き心なく、波方を望むれば、小高き社見えしかわ、これ神のおはします処と其の方に向い、海上平穏を念じければ、不思議や風やみ浪治まりぬ。義経霊に感じ、舟を瀬島につけ、葭をなぎ葦を分けて彼方の森を尋ぬれば、ささやかなる社の縁に白蛇顕われいたり。これ神の使ひなめならぬ。かしこし、厳島大神我等が運を守らせ給ひしことよと、里人に語らい改めて森を拓き、神殿を修理し、また船をとどめし処に注連竹を建て給う。是れ当社創立、起立の起源にして今を去ること八百年に及ぶ。
是れより里人等神徳を尊ぶこと愈々深く、海面守護の神として毎年正月十二日水神を祀りしが、ある年海面に建てし注連竹に黒き苔生じければ、人々怪しみてこれを採り嗜めけるに味あり。生酢干かにして食せば殊に風味よし翌年其の頃を計りて木枝多く建てけるに、またまた苔の生じければ種々製造法を考え遂に現今の如き乾海苔に製し年と共に製造するもの多し、海の苔即ち「のり」と称し鎌倉将軍に献上の栄を担い、江戸幕府開かるるに及び毎年将軍家に献上し、維新の際まで変わることなかりしは人の皆知る処なり。
嗚呼、大森の名産とし名誉海外にたかき海苔の濫觴たる如斯にして、如何に我が厳島大神の海面御守護の御神徳高きか、かしこくも尊きことにこそ。(境内掲示より)
三輪厳島神社の周辺図