勧明山法養寺|わら店の法養寺
法養寺の概要
日蓮宗寺院の法養寺は、勧明山と号します。法養寺は、池上本門寺12世日惶上人が開山となり天正6年(1578)神田三河町に創建、慶長年間に下谷稲荷町へ移転、江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」と呼ばれたといいます。明治43年(1910)当地にあった妙教庵と合併、翌年当地へ移転したといいます。
山号 | 妙経山(みょうきょうざん) |
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院号 | - |
寺号 | 法養寺 |
住所 | 大田区池上1-19-25 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法養寺の縁起
法養寺は、池上本門寺12世日惶上人が開山となり天正6年(1578)神田三河町に創建、慶長年間に下谷稲荷町へ移転、江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」と呼ばれたといいます。明治43年(1910)当地にあった妙教庵と合併、翌年当地へ移転したといいます。
池上の寺めぐりによる法養寺の縁起
天正十五年(1587)頃、神田三河町に開創。慶長年間(1596-1615)幕命により下谷稲荷町に移転。江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」とよばれた。また、境内に熊谷稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。
明治四三年(1910)当地にあった妙教庵と合併し、翌年この地に移った。妙教庵は、もと当地にあった蓮光坊が荒廃したため九代将軍徳川家重に仕えた妙教尼が寛保三年(1743)に再興した寺である。(池上の寺めぐりより)
御府内寺社備考による法養寺の縁起
池上本門寺末 下谷不唱小名
勧明山法養寺、境内古跡拝領地千五百坪余
起立天正六戊寅年、本山十二代日惶上人之代。
拙寺儀は
両御丸大奥御祈祷所ニ御座候ニ付、正、五、九月御祈祷、御巻数御洗米御供物料両御丸江献上仕候。壱ヶ年六度、甲子大黒天御祈祷御洗米 両御丸江献上仕、二月初午、九月廿二日稲荷大明神祭礼御祈祷御札御洗米両御丸江献上仕、十月祖師日蓮大士会式法要之御供物料公方様江献上仕来候。例年右之通り之格式ニ御座候。
将軍 宣下并 若君様御誕生御祝儀、御能御座候節は拝見被 仰付候。御吉例御座候。依之朝夕天下泰平御武運御長久之御祈祷相務め奉申上候。開山妙経院日等、慶長十八癸丑年五月十二日遷化。
本堂
本尊中央題目
釈迦、長ヶ一尺三寸坐像。上行。無辺行。浄行。安立行。文殊、長ヶ八寸五分坐像嗣子ニ乗。普賢、長ヶ八寸五分象ニ乗坐像。持国天。昆沙門天。広目天。増長天。不動明王。愛染明王。鬼子母神。十羅剃女、木立像長ヶ各八寸五分ツツ十躰。日蓮大士之像。
右は
高巌院様御建立之尊躰ニ御座候。子安妙見大士、丈ヶ二寸五分立像琢磨法眼作ト云。
右銘文左之通。(中略)
御祈祷堂、三間ニ五間。
熊谷稲荷大明神木像。
宗庵権現木坐像。
三十番神同 別堂有之候処、明和九年類焼後再建不仕候。
大黒天木立像
鬼子母神同
右、鬼子母神之儀は
有徳院様御感得被為 在候。
惇信院様於 西之御丸御疱瘡被遊候節、御祈祷被仰付に付、御奉納被遊候、尊躰御座候。尤御祈祷堂、葵 御紋附之戸帳水引之儀は、享保十八丑年二月竹姫君様御祈祷被 仰付候節、御寄附被 遊候。則安永二巳年、寛政二成年 御紋御改之節、奉蒙御免許候。
釈尊捏磐像。
右は寛文三年
天真院様御寄附被遊候。絹地惣縫地像ニ御座候。釈尊之羅髪は則
天真院様御前髪を以、被為縫候由申伝候。
地中二坊
実相坊。間坊主実相坊日性、元禄六酉年九月七日卒。本尊釈迦 多宝。
要仙坊。開坊主要仙坊日逞、元禄七戌年五月十一日卒。
右、要仙坊は明和九辰年類焼後未普請不仕候二付、本尊釈迦多宝は本院江願置候。
以上丙戊書上(御府内寺社備考より)
合寺された妙教庵の縁起
妙教庵
内膳山の南、永壽院の隣なり、妙教比丘尼と云もの寛保三年に創立せり、この尼はもと御城につかへ奉りしものなりしが、後に薙髪して妙教と號し、惇信院殿の尊體御安穏御武運長久を祈奉らんがため、庵室を建立せしと云、時にこの地は蓮光坊と云塔頭ありしが、享保よりこのかた荒廃して、又再興するものもなければ、荊棘の地となりしを、妙教力を盡して庵室をおこし、法華経一部を書写して寶塔に納め、三寶祖師の像を安置して、永く天下安全を祈りけるとなり、これによって両山第二十六世日芳上人妙教庵の號をさづけて、いよいよ信心懈らざりしとぞ、今不動明王の像、及び開基清信院妙教日理尼の像を安ず。(新編武蔵風土記稿池上村項より)
法養寺の周辺図