山王薬師堂|もと曹洞宗醫福山桃雲寺
山王薬師堂の概要
山王薬師堂は、大田区山王にある薬師堂です。山王薬師堂は、もと醫福山桃雲寺と号す曹洞宗寺院でしたが明治13年に廃寺となり、戦後に薬師堂のみ再建されたといいます。醫福山桃雲寺は、かつてあった龍泉寺という寺を、当地の領主旗本木原吉次が再建、吉次の法号より醫福山桃雲寺と改号したといいます。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 薬師堂 |
住所 | 大田区山王3-29-8 |
本尊 | 薬師如来像 |
宗派 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
山王薬師堂の縁起
山王薬師堂は、もと醫福山桃雲寺と号す曹洞宗寺院でしたが明治13年に廃寺となり、戦後に薬師堂のみ再建されたといいます。醫福山桃雲寺は、かつてあった龍泉寺という寺を、当地の領主旗本木原吉次が再建、吉次の法号より醫福山桃雲寺と改号したといいます。
新編武蔵風土記稿による山王薬師堂の縁起
(新井宿村)
桃雲寺
境内地頭免除二段五畝二十二歩。八景坂の下にあり。曹洞宗、入間郡越生龍隠寺末、醫福山と号す。もと龍泉寺と号せしに、地頭木原吉次が法謚の字を用ひて、今の号に改む。開山は龍隠寺第二十世撫州道大和尚、正保三年七月二十五日寂す。本堂六間半に五間。本尊釈迦如来の木像を安す。長一尺五寸許、舶来の唐佛なり。
鐘(新編武蔵風土記稿より)
山王薬師堂所蔵の文化財
- 桃雲寺再興記念碑
- 富士講碑
桃雲寺再興記念碑
この地(荒井宿村と馬込村の一部)の領主であった旗本木原氏の五代義永(後に重弘と改名)が、寛文四年(一六六四)、この石碑を造立した。撰文は儒学者林春斎(林羅山の三男)、書は高麗春沢(館林藩医・藩主徳川綱吉の将軍就任に伴い幕府奥医師となった)である。
碑文には、木原姓の由来や領内の古寺再興命名の次第、近郊の様子などが刻まれる。
『新編武蔵風土記稿』にも桃雲寺は「元滝泉寺と号」したものを初代吉次の号を用いて「今の号に改」め、境内は囲碁の山上にこの「桃雲寺碑」があると記されている。
桃雲寺は、明治一三年(一八八〇)馬込の万福寺に合併されて廃寺となり、現在は若干の境内地と薬師堂(戦後再建)がわずかに残されている。(大田区教育委員会掲示より)
富士講碑
天保三年(一八三二)新井宿村の富士講(富士山の信仰集団)が、富士講中興の祖といわれる食行身禄(伊藤伊兵衛・一六七一~一七三三)の没後百年を記念し造立したものである。
碑は亀趺と呼ばれる亀の形に彫られた台石の上に載っており、碑の正面には富士山の尊称「仙元大菩薩」の文字、その上方に日月と雲を配した富士山、下方に行衣を着た猿が向合せに彫られている。亀趺の下の二段の台石には、世話人をはじめ造立関係者と考えられる人々の名前が刻まれている。
富士信仰は、享保期(一七一六~三六)における食行身禄らの活躍によって普及し、江戸とその周辺諸国には多くの富士講が成立した。(大田区教育委員会掲示より)
山王薬師堂の周辺図