慈眼山萬福寺|梶原景時ゆかりの寺
萬福寺の概要
曹洞宗寺院の萬福寺は、慈眼山無量院と号します。建久年間(1190~99)大井丸山の地に密教寺院として創建、元応2年(1320)火災にあい、梶原景嗣のとき馬込に移転したと伝えられます。天文3年(1534)鎌倉の禅僧明宝文竜が、曹洞宗に改め中興しました。
山号 | 慈眼山 |
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院号 | 無量院 |
寺号 | 萬福寺 |
住所 | 大田区南馬込1-49-1 |
本尊 | 阿弥陀三尊 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | 萬福寺梶原殿で宗旨宗派を問わず葬儀可能、墓地受付 |
備考 | - |
萬福寺の縁起
萬福寺は、建久年間(1190~99)大井丸山の地に密教寺院として創建、元応2年(1320)火災にあい、梶原景嗣のとき馬込に移転したと伝えられます。天文3年(1534)鎌倉の禅僧明宝文竜が、曹洞宗に改め中興しました。梶原氏とのつながりの深い寺院で、梶原景時による開基とも言われます。江戸時代には、徳川家光より寺領6石4斗の御朱印を拝領しています。
境内掲示による萬福寺の縁起
江戸名所図絵に「慈眼山萬福寺馬込村にあり曹洞派の禅林にして本尊は金銅阿弥陀観音勢至一光三尊なり。相伝う、当寺は梶原平三景時創立の梵宇なり」と。
当寺は鎌倉時代の初期、建久年間(1190年頃)に梶原景時が将軍源頼朝の命により大檀那となり梶原家相伝の阿弥陀如来三尊仏を本尊として大井丸山と云う処に建立された。
元応2年(1320)に火災にあい、景時の墓所のある馬込へ移され再建された。
室町時代末期になり寺域荒廃し、天正3年(1575年)に相模鎌倉の禅僧明堂文大和尚によって従来の密教寺院から曹洞宗に改め再興された。
当山創建以来実に八百年その間栄枯盛衰を極むるも法灯連綿として仏法脈たり正法を相伝し総柤中の発菩提心により今日の隆昌をみる。爾今永代に亘り平安護持すべきものなり。(境内掲示より)
「大田区の寺院」による萬福寺の縁起
寺伝によれば,鎌倉時代建久年間(1190~99)大井丸山の地に創建,元応2年(1320)火災にあい、景嗣のとき馬込に移り再建された。室町時代末に寺域荒廃,天文3年(1534)鎌倉の禅僧明宝文竜によって,従来の密教から曹洞に改め,再興された。慶長末に梶原の後胤,安部家久の死にあたり,荒廃していた景時の墓と共に墓石を建てたといわれている。また「新編武蔵風土記稿」には,梶原平三景時が開基したと伝えるが,それなら文治,建久の頃の創建になる。大檀都の梶原三河守の墓があるので,それと附会したのではなかろうか。(中略)小用原北条家人の梶原三河守は当寺の大檀那で,万福寺と号している。この人が中興したので,梶原の名から景時が開基と誤ったのであろうと記されている。なお参考までに「小田原衆所領役帳」に『一、三拾弐貫六拾文江戸馬込梶原助五郎』とあるのをあげておく。(「大田区の寺院」より)
新編武蔵風土記稿による萬福寺の縁起
萬福寺
境内二町余、村の東方によりてあり、昔は郡中大井村の内にありしが、海辺なれば波涛の患を避て、いつの頃にか当所に移りしと云。曹洞宗、相模国徳翁寺末慈眼山無量院と号す。寺伝に梶原平三景時が開基せし由をいへり。もし然らば文治建久の頃の創建なるべけれど疑ふべし。大檀那梶原三河守が墓あるによりて附会せしなるべし、それをいかにと云に、平三景時は鎌倉に住せり、当国多磨郡の内柚井領と号する所は、皆景時が領地の跡なりと、土地にても云傳ふ。かの領内元八王寺村八幡宮は、最時が勧請せし所にして、其側に景時が屋敷の跡もあり、是を以考ふるに、昔時もし一寺をも建立せんとせば、其住所及び所領の地を置て遠く当所へ起立すべけんや、寺に傳ふる所いぶかしき事なり、よりて鞍に小田原北條家人梶原三河守、当寺の大檀那にして此人を萬福寺と号せり。此人当寺を中興せしゆへにより、梶原の家号より、誤て平三景時が開基とせしならん。其誤しも又ゆへあるに似たり。境内にたてる梶原氏の碑陰に、梶原三河守影時、同子息助五郎影末云云の文字を刻したるによれば、三河守が先祖景時を慕ひて其名を冒し、其子助五郎も又平三が子源太貴季が名を冒したれど、猶文字をば憚りて違へしならん。
古き人はかかる例多し、銀倉公方永安寺殿の名を氏満とまうせしに、堀越御所政知其跡を慕ひて、後にまた氏満と改められき、是を評して先祖の名を冒すことは、其余慶をうけんとての事なりと【今川記】にいへり。其余猪俣小平六が子孫、世々先祖の名を用ひて範綱と号せし事もあり、三河守父子もかかる類なりしを、不文の僧等ただ平三が著名なるのみを知て、いかにも己が寺の古き世より起りし事を傳へんがため、かく付会せしにあらずや。然るに天正16年の文書(其文は下に出せり)、梶原三河守景朝と記したる時は、此影時影末とえしりしも、其世の人妄作に出しも知べからず。開山は大覚公大和尚寂年を失す。寺傳によれば、平三景時と同時代の人と云んか、されど開闢の事は、鎌倉時代の事とも定めがたきことは始にも云如し、又此開山を大覚和尚と云を以按に、唐僧道隆和何は寛元4年舶来して、後鎌倉に来りしとき、北条時宗崇信してかの地へ一寺を建立せり。後時頼時宗探く帰依せしあまり、武相総の間そこばくの寺院を建立せしよし、郡中海晏寺も其一なりと彼寺の記録に見えたり。道隆和尚示寂の後、謚を賜りて大覚禅師と号したれば、ここにいへる大覚公といへるは、若かの勅賜を誤り傳へて称号とせしも知るべからず、もし然らば当寺もかの時頼建立ありしと云内の一寺とせんか、叉按に寺号三河守が法名をもて名付し時は、開闢の頃はさせる寺院にもあらで、寺号もさらざりしにや、中興開山勅特賜徳光禅師明堂和尚天正19年4月16日寂せり。是三河守が帰依せし僧なるべし、総て中興といへるもの恐らくは当寺の開基開山なるベし。其後慶安二年大猷院殿より寺領6石4斗の御朱印を賜はりしより、今に其地を領せり。
表門。坂の中伏にありて、南に向へり。両柱の間9尺、前に石階21級、門内にも26級あり。
客殿。石階を距ること二十間余、8間に6間4尺。本尊は三尊の弥陀三国伝来の金銅彿なりと云。中尊弥陀は長2尺9寸、左右勢至観音は共に長1尺9寸5分、二像ともに普通の状とは自ら異なり、寺僧の話に此本尊の銅像、其中うつろなるものとは見えず、重さ十貫目に余れりといへり、側に達磨と大と權との像、及び中興開山徳光繹師の木像を安ず。叉側に古き厨子ありその内に立烏帽子を戴き、直垂を著して坐したる状の木像あり、長一尺一寸許、側に木にで作れる筋冑を置、比の宵は立烏晴子の上へ戴くべきやうに作りてあり、像はすべて埃にそみたれど、而体勇威あるさまに作りなせり寺僧は是を梶原平三が像なりと云。されど木像を納めし龕中に位牌を安じて、牌面に萬福寺殿三州大守香山不陰大居士と記せり。始に
も云如く、梶原三河守は北条氏直の家人にて、当所の領主なれば、此人の像なる事疑ふべくもあらぬを、是も愚蒙の僧徒景時が著名なるにより、誤り傳へて真を乱るに至ること嘆息すべし。三河守がことは猶古蹟の条に出したれば照し見るべし。
寺宝。三光阿弥陀如来一体。右大将頼朝守本尊なりと云傳ふ。
鬼子母神像一体。日蓮上人の護持佛なりと云。
韋駄天像一体。弘法大師の作なりと云。
鞍一口。総体金の梨子地にして、海なしの鞍なり。前後の輪へ布袋和尚の絵を高蒔絵にしたれど、それもみなすれやつれて古色なること見るべし。其さま普通の鞍のごとくにして、後輪のややそばたてり。寺伝には梶原景時が戦陣に用ひしものなりと云。されどこれも三河守がものなるべし。下の鐙轡も同じ、乗鞍の回総上の如し。
鐙一掛。黒塗の五六鐙なり。幅四寸五分。ざれがね無。左右にして、其大様は普通の鐙と異ることなし。
轡二掛。世に用ゆる洗轡の如きものなり。
螺一口。周囲1尺6寸。吹口鉄を以てかざる。是も景時所持の螺にて、右大将頼朝富士の牧狩の時用ひしものとす。又は石橋合戦の時用ひしものといへり。何れもうけがたき説なり。されど総体古色にして永禄天正年代のものとは見ゆ。
膳椀十具。是も古物なりと云傳ふ。されどいかなる人の用ひしと云こと傳へず。いつの頃にや毀れて数たらず。総て朱塗にして今用ゆる所の品よりは形大なり。本椀は径4寸7分、高さ2寸9分。いと底高さ1寸許、其余の椀は今の世に用ゆる所のものとさして替らず。膳は大小あり、大は1尺2寸四方、小は1尺四方、共に隅取り角の折敷膳なり。
文書一通。その文左の如し。(中略)
閻魔堂。表門の内にあり。2間半に2間。
秋葉白山聖天合社。客殿の南にあり。三座のうち聖天は印子の像にして、梶原景時の守本尊なりと云。
梶原景時墓。客殿の西丘の上にあり。五輪の石塔にして、法名卒日等を記さず。寺伝に平三景時が墓なりといへども、是も三河守が墓なるべし。景時は駿河狐崎にて誅せられしなれば、後に菩提のためにたてし碑なりといはばいはん歟。とにかくに慥ならぬことなり。
梶原某墓。同所にあり。是も五輪の塔にて、面に繁室浄栄居士と刻し、其側に慶長11午年6月9日と記す。是は梶原助五郎が墓か、未だ其正しきことを知らず。碑陰に云、加持輪さ三河守影時、同梶原助五郎影末の石塔従先規雖有之、為敵乱今度安倍猪左衛門家久為改者也。此梶原孫々代々馬込村慈眼山萬福寺檀那、依今建立之者也とあり。文字湮歿してやうやく読わくべきばかりなり。此碑陰の文によりても、此二基は三河守影時が父子の為に建しこと知べし。外にも慶長の頃建し男女の墓あれど、其人を傳ず。
橋本但馬守教与墓。境内南の方にあり。碑面に銀宋浄金禅定とあり、側面に元和9年9月26日と彫る。此但馬守は何人なりしや詳かならず。今村民庄三郎と云もの、かれが子孫なりと云のみにて、世系旧記等も傳へざれば、総て考ふるによしなし。
裏門。表門の西の方にあり。南向なり。両柱の間7尺。(新編武蔵風土記稿より)
萬福寺所蔵の文化財
- 板碑群(大田区指定有形文化財)
- 馬具(大田区指定有形文化財)
- 阿弥陀如来及び両脇侍立像(大田区指定有形文化財)
- 日待供養塔(大田区指定有形民俗文化財)
板碑群
当寺の境内で発掘された板碑は、およそ50基、このうち年代の読めるものだけが大体30基近くあり、元徳2年(1330)〔推定〕を最古とし、明応2年(1493)にわたっている。
板碑の主尊について見ると、はなはだ単純で主尊の見える板碑34基のすべてが弥陀一尊種子ばかりであり、単調性の最たるものといえる。
これだけ多数の板碑が一か所に集在することも珍しく、素朴な製作は板碑の末期的様相を示すものである。(大田区教育委員会掲示より)
馬具
当寺には古くから馬具の各部即ち、鞍一口・鐙一掛・轡二掛がのこっている。
鞍は総体が金の梨子地で、前後の輪に高蒔絵の布袋和尚の図柄が見られる。
伝説では梶原景時が戦陣で用いたものというが、「新編武蔵風土記稿」では北条氏直の家臣梶原三河守のものであろうと記す。
いずれにしても、ここ馬込の地名に最もふさわしい中世以来の遺品と考えられよう。(大田区教育委員会掲示より)
阿弥陀如来及び両脇侍立像
中尊 阿弥陀如来、像高90cm
脇侍 観世音菩薩、像高60cm
脇侍 勢至菩薩、像高60cm
当寺の本尊で、一光三尊の善光寺式阿弥陀如来像である。いま光背は失われているが、脇侍二尊は頭上に宝冠をいただいている。
寺伝によれば、天文3年(1534)当寺は大井から移り当所に再興され、従来ここにあった密教寺院を改宗し、曹洞宗にしたといわれる。
本像の製作年代はその頃かそれ以前にさかのぼるものと思われる。(大田区教育委員会掲示より)