玉川神社|田谷城主吉良頼康が熊野大社を勧請
玉川神社の概要
玉川神社は、世田谷区等々力にある神社です。玉川神社は、文亀年間に世田谷城主吉良頼康が熊野大社を勧請して創建、明治5年には村社に列格、明治41年社号を玉川神社と改め、字上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社、字小山根にあった御嶽社を合祀したといいます。
社号 | 玉川神社 |
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祭神 | 伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解命 |
境内社 | 大国社、稲荷社、三峯社、天満社、祓戸社、八幡社 |
相殿 | - |
祭日 | 例祭日:9月 |
住所 | 世田谷区等々力3-27-7 |
備考 | 旧等々力村鎮守、旧村社 |
玉川神社の由緒
玉川神社は、文亀年間に世田谷城主吉良頼康が熊野大社を勧請して創建、明治5年には村社に列格、明治41年社号を玉川神社と改め、字上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社、字小山根にあった御嶽社を合祀したといいます。
せたがや社寺と史跡による玉川神社の由緒
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解命である。文亀年間に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、明治41年熊野神社の社号を、いまの玉川神社に改め、字上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社、字小山根にあった御嶽社を合祀した。なお、本社には天照大神・日本武尊、少彦名命、建御名方命が合祀されている。
玉川神社の総本社である熊野新宮は、もともと熊野に移住した出雲族が、郷里の氏神であったところの島根県八束郡八雲村字熊野にある熊野神社を分祀したもので、微々たる存在だったが、平安中期に起った熊野信仰の隆盛と共に、朝廷以下一般の民衆の支持により全国的に信仰せられ、鎌倉時代には、山伏や先達により全国に熊野神社が勧請され、特に、武士に厚く信仰されるようになり、代々社寺を尊崇した吉良頼康も、当村の流行でこの熊野神社を創立したものと思われる。
境内にある「豊田正冶翁頌徳碑」の石碑は昭和29年に玉川全円耕地整理組合によって建てられたものである。
豊田翁は、この地累代の名家に生まれ、学を杉浦重剛先生に受け、その思想を実践した人で、玉川村村長として、将来の郷土開発事業として玉川村全域の耕地整理、道路整備(宅地造成)に時価にして数十億の巨費と32年の歳月をかけいろいろな妨害や障害をのりこえて昭和32年に完成させた。現在、玉川村の人々が郊外住宅地として恩恵を受けているのは翁のおかげである。なお、その石碑と並んでいるのは、この耕地整理の技師、高屋直弘氏の留魂碑である。
玉川神社の真南、等々力1-25にあった八幡社は、玉川神社の管理であったが、昭和39年玉川神社に合祀された。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による玉川神社の由緒
(等々力村)
熊野社
字宿と云所にあり。村の鎮守にして、毎年九月二十八日祭事を勤む。ふるくは十五日なり。後に改し由、別当は満願寺と云、本社五尺四面、上屋二間に二間、拝殿も二間に二間、鳥居両柱の間九尺、夫より石階七級を経て又二の鳥居あり、両柱の間九尺前に石階あり、是も七級なり。何れも巳の方に向へり。
伊勢宮
字上原満願寺領の内なり、本社二間九尺、南向、是も満願寺の持なり。
諏訪社。
字を則諏訪と称する所なり。勧請年月を詳にせず、社二間に九尺、同村西光寺の持なり。
御嶽社
字小山根、満願寺領の内にあり、是も勧請の年代を知らず。(新編武蔵風土記稿より)
世田谷区教育委員会掲示による玉川神社の由緒
玉川神社
祭神 伊弉諸尊、伊弉再尊、天照皇大神
例祭 九月二十八日
文亀年間(1501-1504)に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、別当は満願寺で等々力村の鎮守であった。
明治五年に村社に定められ、同四十一年に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御嶽神社を合祀した。
境内には、郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。(世田谷区教育委員会掲示より)
玉川神社の周辺図