致航山満願寺|世田谷区等々力にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

満願寺|吉良氏が開基、深沢の兎々呂城内に創建、玉川八十八ヶ所

満願寺の概要

真言宗智山派寺院の満願寺は、致航山と号します。満願寺は、吉良氏が開基となり、定栄和尚を開山として文明二年(1470)深沢の兎々呂城に創建、天文18年(1549)当地へ移転したといいます。慶安元年(1648)寺領13石の朱印状を拝領、近隣の多くの末寺を擁していました。玉川八十八ヶ所霊場54番です。

満願寺
満願寺の概要
山号 致航山
院号 -
寺号 満願寺
住所 世田谷区等々力3-15-1
本尊 大日如来像
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



満願寺の縁起

満願寺は、吉良氏が開基となり、定栄和尚を開山として文明二年(1470)深沢の兎々呂城に創建、天文18年(1549)当地へ移転したといいます。慶安元年(1648)寺領13石の朱印状を拝領、近隣の多くの末寺を擁していました。

世田谷区教育委員会掲示による満願寺の縁起

文明二年(1470)吉良氏によって開基され、開山は定栄和尚、本尊は大日如来である。江戸時代には、御朱印寺領十三石が与えられていた。山門の額は細井広沢、本堂の額は広沢の子九皐の筆である。細井広沢は、元禄年中その学識をもって柳沢吉保に重用され、晩年は玉川を愛して蕉林庵玉川と号した。当代の代表的名筆家として知られている。寺内の墓は国の史跡に指定されている。(世田谷区教育委員会掲示より)

せたがや社寺と史跡による満願寺の縁起

本尊は大日如来(1尺2寸の木像〉で真言宗智山派、京都智積院の末寺である。
開山は文明2年(1470)定栄和尚、開基は吉良氏で、深沢兎々巴城内にあったが、天文18年(1549)第2世栄心和尚の代、現在地に移した。等々力の地名は、この兎々目域から出たという伝えがある。
江戸時代でも御朱印寺領13石を与えらていた。第9世実祐和尚は柳沢出羽守に召され易経の講義をしている。
本堂は宝暦13年(1763)に再建したが、昭和43年耐火建築に改築しつつある。本掌の額は細井広沢のむすこ九皐の筆である。
寺内には細井広沢はじめ一族の墓があり、寺宝には広沢の書や版木等がある。
〔細井広沢〕
万治元年(1658)10月8日掛川に生れ、寛文8年(1668)11才で父に従って江戸に来、経史を林信篤に、和歌を清水谷実業に、兵学を木工源右衛門に、剣を堀内源太衛門、柔術を渋川伴五郎、槍術を南部宝蔵院、射法を石螢林斉に、騎術を大坪道雲に、天文測量を金子立運に学んだ。
元禄6年(1693)柳沢吉保に200石で用いられ、 15年辞職し、深川八幡前で、子弟の教授にあたった。広況は書家として時代を代表する有名人であった。
大石良雄は主君の復讐の計画を広沢に告げ、打入の時に彼が用いた「君仇不倶戴宍」のことばは、その助言によった。堀部安兵衛とは剣の同門で、討入前夜には詩を贈って激励した。
広沢は晩年多摩川を愛し、蕉林庵玉川|の号を用いた。享保20年(1735年〉江戸青山で逝去した。
しきたりとして亡父の碑文を世つぎの人が作ることになっている。
広沢の命日12月23日には最近まで土地の青年会で試胆会を行なっていた。
末寺には等々力不動堂善養寺金剛寺覚願寺真福寺がある。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による満願寺の縁起

(等々力村)満願寺
字宿と云所にあり、新義真言宗にて、山城国嵯峨報恩院の末寺なり、致航山と号す。又境内地蔵堂の鰐口には智廣山とあれば、後に文字を改めしと見ゆ。天文の頃は医王山といへりと、是もいつの頃改めしことを詳にせず。寺領十三石なり。是は慶安元年十月二十四日に初て賜はれり。開山は定栄法印といへり。是も何の時の人なりや傳へず。当寺は昔深沢にありしを、後此地にうつせり。開基は吉良家なりと云、されどその人を詳にせず、按に吉良家の系図に左京太夫政忠が嫡子経舜を満願寺殿と云しよしを載、卒年をのせざれど、その舎弟左京亮威高は天文十五年七月卒せし人なり。寺傳に天文の頃開闢せしといへど、是も又疑ふべし。当寺に蔵する文書に、此寺は上古より吉良家の祈願所と云、是天文四年六月左兵衛佐頼康よりあたへし所なり。又一には医王山満願寺再興の事をのせて、甲寅二月とあり、甲寅とのみあれば定かならねど、恐らくは天文廿三年甲寅の事ならん。此頃は廃寺の如くにてありしを再興せしと見ゆ。下に載る誓音寺へ与へし文書をも合せ見るべし。これ等によれば何れ開基は天文より遥か前にして、経舜を満願寺といひしは此寺に葬りしよりの事にして、開基の沙汰に及ばざるべし。又谷岡氏の系図に、谷岡山城守重頼永禄七年五月満願寺を深沢郷に建立す、其後嫡子重長天正十八年兎々呂城田丸の寺を、深沢の原へ引移し、兎々呂城の満願寺と称すとあれど、是は重頼が時に修理を加へ、其子重長が世に至り、寺地を移せしを云なるべし。されど此ことは尤分明ならざれども、古文書等に附て考へ置のみ。
本堂。十一間に八間なり。本尊は大日如来長一尺二寸、木佛の坐像なり。弘法大師の作。
表門。両柱の間九尺、何れも南向なり。門に致航山と云額をかかぐ、細井廣澤の書也。
地蔵堂。本堂の西にあり、東向なり、二間四面、本尊地蔵立像にて長六尺なり。
鐘楼。地蔵堂の傍にあり、九尺四面、鐘長三尺五寸径二尺、安永五年鋳し所なり。
細井廣澤墓。本堂の後の山にあり。銘の略に云、詳知慎字公謹、号廣澤。姓藤原氏細井。父知冶、母山本氏、万治元戊戌年十月乙亥八日壬申生遠州掛川、享保二十年乙卯十二月己丑二十三日戊子卒、年七十八と云々、此人書を以て世に鳴しことは、人あまねく知所なれば是には載せず。(新編武蔵風土記より)


満願寺所蔵の文化財

  • 細井広沢墓(国指定史跡)
  • 満願寺(せたがや百景)

満願寺の周辺図