青林山東覚院|鎌倉時代末期創建、玉川八十八ヶ所霊場
東覚院の概要
真言宗智山派寺院の東覚院は、青林山薬王寺と号します。東覚院は、僧月空が正応元年(1288)庵室を建立、永禄元年(1558)大願寺と号したといい、その後青林山東覚院薬王寺と改めたといいます。玉川八十八ヶ所霊場42番です。
山号 | 青林山 |
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院号 | 東覚院 |
寺号 | 薬王寺 |
住所 | 世田谷区千歳台4-11-11 |
本尊 | 薬師如来像 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 東覚院千歳幼稚園 |
東覚院の縁起
東覚院は、僧月空が正応元年(1288)庵室を建立、永禄元年(1558)大願寺と号したといい、その後青林山東覚院薬王寺と改めたといいます。
せたがや社寺と史跡による東覚院の縁起
東覚院(廻沢225)
青林山薬王寺東覚院と号す。川崎市の新義真言宗智山派西明寺の末寺である。
宝暦6年(1756)作成のこの寺の「薬師如来御縁起」によれば正応元年(1288)大和長谷寺より月空という廻国の僧が草庵を結んだのがこの寺の草創であるという。その頃は民家もなく広々とした原野であった。永禄元年(1558)大願寺と号し民家もここかしこに出来た。
その後400年余り過ぎて武州玉川のほとりに河野氏という神主あり。両眼失明し氷川明神に祈願したところ夢中に駿河富士山中宮薬師に祈誓すべしとお告あり早速霊場に参寵した。或夜東に有縁の地あり汝供奉して彼の地に遷さばたちどころに平癒すべしと雷の如く鳴り渡り胸のほとりに下らせ給うた。これに供奉して東に帰ると忽に両眠が癒った。かかる尊き御仏を不浄の地におくべきでないと浄地を探し求めたところ廻沢という所に不思議な霊地あり。その昔吉良の御所勝光公の御母公の御祈願寺で30石の寺領を受けていたが吉良氏没落後は無縁の寺となり大破し境内のみ残った。境内は水清らかな舟型の霊地であったのでここに御堂を建て尊像を安置し青林山薬王寺東覚院と号した。
本尊は薬師如来富士山薬師ケ嶽より将来の尊像御丈3寸8分(約12cm)閻浮だ金の御仏で弘法大師の御作なり云々とある。
「新桶武蔵国風土記稿」には「東覚院除地五反五畝歩(中略)本尊薬師本ノ立像長二尺五寸バカリナリ。開山開基詳ナラズ」とある。二尺五寸(約76cm)の仏像とあるのは多分秘仏の仏像の前に安置しである前立の薬師如来のことを誤って載せたものと思われる。
本尊の薬師如来は秘仏として奥の院に安置され現在も河野家が20年毎に開扉する慣例となっている。
境内に享徳2年(1453)建立の妙心禅尼の板碑があったが現在は本堂に安置してある。また境内には享保12年(1727)建立の観秀和尚の古碑もある。山門は約330年前に福田甚左衛門が建立奉納したものである。山門の「青林山」の額は前智積院化主動潮僧正の筆である。
明治19年に火災にあい山門を残し全て焼失したが幸に本尊・木像閻魔大王像並びに十王像などは難をまぬがれた。本堂は明治43年閻魔堂は昭和6年に再建した。梵鐘は昭和43年の本尊開帳に際し篤志家により奉納されたものである。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による東覚院の縁起
(廻り澤村)東覚院
除地、五段五畝歩、村の東寄にあり、青林山と號す、新義真言宗、當國都筑郡小杉村西明寺末、客殿南向にて七間に九間、本尊薬師木の立像長二尺五寸許、開山開基詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
東覚院の周辺図